雑感

「否定と肯定」

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「否定と肯定」とは、2016年に公開された英国BBC製作の映画のタイトルである。原題は“Denial”。こんな映画があったことを、迂闊にも、私はまったく知らなかった。Prime Videoを検索しているうちに、たまたまこの映画に出会い、何の予備知識もないまま観ることになった。

ナチスによるホロコースト、すなわちアウシュビッツなどの絶滅収容所でのユダヤ人の意図的な大量虐殺を虚偽だと主張する英国の歴史家デイヴィッド・アーヴィングが、その主張をでたらめであるとして、著書の中で辛辣に批判した米国の歴史家デボラ・リップシュタットと、著書の出版元であるペンギンブックスを、英国において名誉毀損で告発した裁判の顚末を映画化した作である。俳優が演じたドラマ仕立ての映画ではあるが、観る側にとっては、ほとんどドキュメンタリーかと思わされるような構成になっている。だから、基本は事実に忠実に従っている。

アーヴィングが、この名誉毀損の訴訟を実際に提起したのは1996年のことだが、なぜ米国ではなく、英国で提起したのか。その事情がなかなか興味深かった。リップシュタットの著書の出版元のペンギンブックスが、英国の出版社であることが一つの理由ではあるが、それ以上に、英国の法制度においては、名誉毀損の訴訟の場合、その立証責任(名誉毀損にはあたらないとする立証責任)は、訴えられた被告の側にあると定められていることで、こんなことはまったく知識外のことだった。多くの国では、これとは逆に、原告の側に立証責任(被告が原告に対して名誉毀損を行ったとする立証責任)がある。そこで、英国では、名誉毀損の訴訟では、初手から原告が有利な位置に立つことになる。以前のブログ「検察側の証人」で、英国では、弁護士には、被告人のために証拠集めや証人探しをする弁護士solicitorと、法廷で証人に質問し、陪審員に向けて弁論する法廷弁護士barristerの二種類があり、その両者が截然と区別されている事実があることを知って驚いたと記したが、この映画でも、被告のリップシュタットの大弁護団にも、その二種類の弁護士がおり、それぞれの役回りを忠実に果たしている(とくに法廷弁護士リチャード・ランプトンの役割が重要)。そこがこの映画の一つの見所でもあるのだが、それ以上に、英国の法制度の独自性を、改めて再認識したような次第である。

この裁判は、無論、名誉毀損の罪は成り立たず、被告側の勝訴で決着することになるのだが、実のところ、ホロコーストの細部については、いまだに解明されていないところが少なからずあるという。ホロコーストの犠牲となったユダヤ人の数は600万人とも言われるが、その数にも諸説あって、いまだに明確ではないらしい。ホロコーストの歴史は、第二次大戦後のイスラエル建国の動きとも大きく結びついているから、その真実を探ることは、必然的に政治的な意味合いをつよく帯びることにもなる。そのあたりが実に厄介だし、それゆえにこそ、ホロコーストを虚偽だとする言説も繰り返し現れることになるのだろう。

この映画を観ているうちに、日本でも「マルコポーロ事件」とやらがあったことを思い出した。ホロコーストはなかったと主張する何樫氏の論を載せた、文藝春秋社刊の雑誌「マルコポーロ」が、ユダヤ系の国際団体からの強硬な抗議を受け、雑誌そのものが廃刊に追い込まれたとする事件である。1995年のことだから、アーヴィングの訴訟とほぼ時を同じくする。

ホロコーストを虚偽だとする言説は、類似の日本での言説――「南京大虐殺などなかった」「関東大震災における朝鮮人虐殺などなかった」とする言説とも、どこか重なるところがあるように思われる。こちらにも、政治的な意味合いが多分に含まれるから、これまた実に厄介なところがある。

証人が数多くおり、物的な証拠も多数あるはずなのに、政治的な脈絡の中に取り込まれると、いくつもの「真実」が現れることになる。実に難しい問題である。
関東大震災の朝鮮人虐殺についていえば、大震災の直後、自警団の一員に加わっていながら、朝鮮人と誤認され、危うく殺されそうになった俳優・演出家の千田是也(せんだこれや、本名伊藤圀夫)が、その忌まわしい体験から、芸名を「千駄ヶ谷のコリアン」をもじって付けたとする話がある。これなど、いまや若い世代にどこまで知られていることなのだろう。

ここで、突然、「神軍平等兵」を名告って破天荒な活動を行った奥崎謙三の行動を追った原一男のドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」を思い起こした。1987年の公開直後、渋谷のユーロスペースという小さな映画館で観た。いまなら絶対に制作不可能な映画である。
奥崎は、日本の占領地であったニューギニアで、終戦後であるにもかかわらず、上官の命令で兵士二名が銃殺処刑された事実があったことを知る(奥崎もニューギニア戦線に従軍していた)。そこで衝撃的な人肉食の事実があったことも後に明らかにされるのだが、その処刑の事実を知った奥崎は、その上官のもとに押しかけ、その責任を徹底的に追求しようとする。1983年のことである。すでに戦後40年近く経っている。その上官は、こうしていまは皆が平穏無事に暮らしているのだから、過去をほじくり返して、いらぬ波風を立てるべきではないと言って、その詳細について語ることを拒む。そこから奥崎の過激な行動が続くことになるのだが、問題としたいのは、そこで述べられた上官の言葉にうかがえる意識である。いまは平穏無事なのだから、戦争の罪悪などすべて蓋をして置くべきだとする、その意識である。これは、ある意味で卑怯な言い訳であり、罪を犯した者も、そうでない者も、戦争が終わって落ち着いたところでは、すべてが無化されてしまうのだから、いまさら過去を蒸し返すべきではないとする理屈である。そこに出て来たわけではないが、「一億総懺悔」という、終戦直後に唱えられたお題目のような言葉は、そのような意識をよく示している。

この「ゆきゆきて、神軍」の上官の意識は、ひょっとするとホロコーストに具体的に関与した(あるいは関与させられた)多くの兵士たちや人々のそれと重なるところがあるのではあるまいか。ならば、自らが関与した、あるいは関与はせずとも見聞した具体的な事実、そうした過去の詳細な記憶を話すことを避けようとする気持ちが生じたとしても、おかしくない。いま平穏無事に生きていることが何よりも大事だからである。そうしたことが、ホロコーストの詳細がなお不分明であり、それを根拠にホロコーストを虚偽だと主張する言説がいまなお現れ続ける理由の一つであるのかもしれない。

*「ゆきゆきて、神軍」のDVDは所持しているのだが、信濃追分に置いてあり、しかもずいぶん長く観ていない。だから、右に記したところは、細かなところで誤りがあるかもしれない。なお、私もまた「一億総懺悔」のお題目が、それを隠れ蓑として、戦前の体制をずっと引きずる現在の日本のありかたを生み出しているという点で、奥崎の主張の一部(当然ながら全部ではない)は肯定的に受けとめている。なお、このことについては、以前のブログ「コリーニ事件」「続・コリーニ事件」でも述べている。

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