雑感

聖火リレー

投稿日:2026年1月3日 更新日:

オリンピックにはあまり関心はない。それどころか、2021年、コロナ禍の中、東京大会をなりふり構わず強行したことについては、その金儲け優先の姿勢ともあわせて、それを批判するブログを書いたりもした(「五輪狂躁曲」)。

そのオリンピックの冬季大会が、来月、イタリアで開催される。ミラノ・コルティナ大会と呼ぶらしい。コルティナでは、1956年、これも冬季大会が、コルティナ・ダンペッツォで開催されている。ミラノはともかく、コルティナ・ダンペッツォのあたりには行ったことがない。

冬季大会の開催地では、ドイツ南部のガルミッシュ・パルテンキルヒェンを列車で通過したことがある。ヴァイオリン製作で知られるミッテンヴァルトを訪ねた際のことである。
ここで冬季大会が開催されたのは1936年のことで、私の生まれるかなり前のことだが、家にそのオリンピックの記念の品が残されており、それでその地名をずっと記憶していた。その記念品というのは、10センチほどの長さのシャープペンシル(正確には早川式シャープペンシル以前の繰り出し鉛筆と呼ぶべきだが)で、端に小さなレンズ付きの覗(のぞ)き穴(直径3ミリくらい)があり、そこを覗くとガルミッシュとパルテンキルヒェンの画像が見られる。実に精密な造りで、その二枚の画像はいまも鮮明に見える。オリンピックに出場した選手から貰ったお土産らしいが、その選手が誰であったのかは、耳にした記憶はあるが、忘れてしまった。

こんな昔のオリンピックのことを書いたのには理由がある。例によって、学習用英字新聞“the japan times alpha”を見ていたら、ミラノ・コルティナ大会に関連して、聖火リレーの歴史がそこに記されていたからである。聖火リレーは、近代オリンピックの当初からあったのかと思っていたのだが、その始まりは1936年に開催されたベルリン大会の際のことであり(ガルミッシュ・パルテンキルヒェンの冬季大会と同年)、そこに当時のドイツ首相、ナチスのヒトラー総統の意向がつよく働いていたと知って驚いた。

オリンピックのベルリン開催が決まったのは1931年のことであり、そこには第一次大戦で敗戦国となったドイツを世界連帯の場に再び戻そうとするねらいがあったという。このあたり、後の時代のことではあるが、第二次大戦で敗戦国となった日本が、いわば戦後復興の象徴として、東京大会を1964年に開催したのも、これとよく似た事情であっただろう。1960年に開催されたローマ大会も、イタリアが第二次大戦の敗戦国であったことを思えば、これも事情は同じであろう。1931年の段階では、ヒトラーはまだ首相ではない。だが、1933年、ヒトラー政権が誕生する。ヒトラーは、宣伝相ゲッベルスの進言を受けて、オリンピックを、その政権の権威を高めるために徹底的に利用しようとする。聖火リレーは、そのねらいに沿う目的で創始されたという。
オリンピックを成功させるため、ヒトラー政権は、それまでの反ユダヤ主義や、人種差別の動きを、一時的ではあるが隠蔽したりもした。だが、その一方で、新たに創始した聖火リレーにおいては、アーリア人種の優越性を誇示するかのように、ギリシャからベルリンまでの聖火リレー走者3422人をすべて、Aryan-loking menで揃えた。
もっとも、ギリシャのオリンピア遺跡で聖火を採火し、開催期間中、その火を主競技場でずっと燭(とも)し続けることは、1928年のアムステルダム大会から始まってはいた。そこに聖火リレーを新たに持ち込んだのが、ヒトラー政権であったことになる。

第二次大戦後、そうした曰(いわ)くのある聖火リレーがなぜそのまま維持されたのか、その理由はまったくわからない。しかし、その始まりの事情を知ると、やはりもやもやとした感じが残る。
そういえば、日本の戦後の国民体育大会の場でも、ずいぶん以前には、入場行進に際して、あのヒトラー式敬礼とよく似た敬礼を正面スタンドに向かってやっていたような記憶があるのだが、どうだろうか。

オリンピックのような国際的な競技会と政治の関係はどうあっても切り離せない。しかも、多くの場合、運動選手はそうしたありかたに、きわめて鈍感であったりする。そこに、私などはいつも不信感を抱いている。以前のブログに記した2021年の東京オリンピック強行開催への疑問も、そうしたところにつながっている。

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