松本清張に「火の記憶」と題する短編がある。さして評価の高い作ではないし、いま読み返しても、結末部分など、無理な謎解きに仕立てようとする意図が見え透いていて、どこか物足りない。
とはいえ、この小説には、昔から気になるところがある。主人公頼子の結婚相手である泰雄は、四歳の時に父が失踪し、十一歳の時に母を亡くしている。いわば不遇な幼少期を過ごしたともいえる。
その泰雄の頭の中に、母とともに見た、不思議な火の記憶がずっと残されている。真っ暗な闇の空に、山の稜線を這うように、赤々と燃える火の記憶である。泰雄は、母の手を握り、息を詰めてこの光景を見ていたが、それとともに、母の傍らに、父ではない別の男が立っていたことも、憶えている。その火が何であったのか、そこから男の正体を尋ね当てようとするところが、この小説の眼目になる。だが、述べたように、その謎解きは、さほどおもしろいものではない。ただ、この不思議な火の記憶、それが何を意味するのかがわからないまま、泰雄の頭の中にずっと残されていた。そこが、この小説を初めて読んだ時から、気になっていた。
それというのも、なぜかわからぬ、そうした記憶が、私にもあるからである。記憶というより、記憶以前の恐怖感というべきものかもしれない。
小田急線の下北沢駅は、いまはまったくの地下駅になってしまったが、以前は、狭い二本の地上ホームが並ぶ駅だった。ホームの上を、井の頭線の鉄橋が跨(また)いでいた。そのコンクリートの橋脚が、色あせた剥(む)き出しのまま、ホーム上にもあった。
下り線の橋脚の脇近くに、四灯式の信号機があった。運転手の側からは西日と正対する位置になるので、視認に影響が出ないよう、四つの灯(あかり)の上には、ひどく長い庇(ひさし)が付けられていた。
その信号機を見るたびに、なぜか異様な恐怖感を覚えた。理由はわからない。長い楕円形の黒い背面板、そこから突き出た四本の長い庇が、大きな不安、大袈裟にいえば、存在の根底にかかわるような不安を抱かせた。それを、じっと見ることもできないほどだった。
もっとも、その恐怖感は、時とともに薄れていった。高校生になった頃には、ほとんど意識することもなくなった。だが、今度は、なぜその信号機に不安を覚えたのかが、気になり始めた。
松本清張の「火の記憶」に出会ったのは、その頃である。それで、ひょっとすると、心のどこかに秘められたままの記憶が、その信号機への恐怖感となって現れていたのではないかと、考えるようになった。
いまとなっては何もわからないままなのだが、もしかすると、幼い頃の、母との別れにまつわる何かが、記憶の底に沈んでいるのかもしれない。といって、思い当たる具体的な何かがあるわけではない。「火の記憶」から呼び起こされた想像に過ぎない。いかにも曖昧模糊としているが、それにしても、あの不安、恐怖感は、一体何によって生まれたのか。