筑摩書房のPR誌『ちくま』の8月号を見ていたら、歌人の俵万智とブック・デザイナーの名久井直子の「歌集の顔のつくり方」と題する対談が載っていた。
その対談の中で、名久井の発言を受けて、俵が、短歌はSNS(Social Networking Service)との相性が良く、歌をつくる人がそれによって広がった、と述べているところに目を惹かれた。X(旧ツイッター)には、長い現代詩とか、まして小説とは書けないが、短歌だとそこに作品が載せられるし、すぐに返事も返って来る、とも述べている。もっとも一方で、俵は、SNSなどの言葉の洪水の中にいる若い世代の人々が、一旦、そこから離れて、自分の心と向き合い、ゆっくり言葉を探して作るのが短歌だ、とも述べているが、それはその通りだろう。
そこで、私なのだが、私は短歌が作れない。俳句も駄目だし、詩を作ることもできない。さらにいえば、SNSの世界、とりわけXとかInstagram(こちらは画像が中心のようだが)とかには、まったく関心がもてない。厭厭使っているスマホにも、そんなものは入れていない。
Xについていえば、それを嫌うのは、俵も言うように、長い文章が載せられないからだろう。私のブログもSNSの範疇に入るのであろうが、ご覧いただければわかるように、ほとんどが長文である。さらにいえば画像もない。だから、お読み下さる方は、ごく僅かである。
そこで、先の対談である。私の場合、長文しか書けないことが、ひょっとすると短歌や詩が作れないことと、どこか繋がっていはしないか。Xなどを嫌うのも、重なるところがあるのかもしれない。
さて、ここからが、このブログに以前に書いた「研究者の文体」と結びついていく。私の文章は、読みやすいとよく言われる。論理的な文章だと言えば聞こえはいいが、しかし、それを裏返せば、平凡でつまらない文章だということでもある。以前のブログに記したことを繰り返せば、私の文章は、「癖がなく素直」であり、だから「魅力が薄い」ということになる。つまり、個性的な文体ではない。
私の書くものが論理的なら、それは必然的に長文化せざるをえない。短歌や詩が作れないこと、Xなどを嫌うのは、だから当然なのではないかと、あらためて思い至った。
もとより、すぐれた歌人や詩人も、評論文、時には論文を執筆したりする。ところが、彼らが書く文章には、個性的な文体が備わっている。敢えて悪口を言えば「癖があって素直」ではない。しかし、文章としての魅力は、明らかにそちらの側にある。
とすると、ここでも、先のブログと同じ結論を述べるしかない。私の場合、癖のない素直な文章のまま、研究の着地点を模索するほかない、ということになる。
*先のブログ「研究者の文体」を「研究」に分類したので、「雑感」に近い内容だが、ここでもそれに合わせる。