いま千葉の文化創造講座というところで、『万葉集』のお話をしている。先々週の講義では「挽歌」を取り上げたのだが、その中で、「天智挽歌群」の中の、倭大后(やまとのおおきさき)の一首を取り上げた。以下のような作である。現代語訳とともに記す。
天皇(天智)の崩(かむあが)りましし後の時に、倭大后(やまとのおほきさき)の作りませる御歌一首
人はよし思ひ止(や)むとも玉蘰(たまかづら)影に見えつつ忘らえぬかも
天皇が崩御なさった後で、倭大后がお作りになった御歌一首
他人はよしや故人を思いかけることをやめようとも、私は玉蘰の蔭のように面影に見え続けて忘れられないことだ。
そこでは、以下のような説明を加えた。この「玉蘰(たまかづら)」は、蔓性(つるせい)植物を輪状に束ね、髪飾としたもので、異界との交流をはかる呪力がある。ここは、殯宮(ひんきゅう)儀礼に際しての荘厳(しょうごん)用の「蘰」を意味する。――このように述べた後で、「影に見えつつ」の「影」とは、霊的なものの本質が外部に現れた状態を意味し、この場合は亡き天智の魂の姿が目の先にちらついて、忘れられないと歌っていることになると述べた。
――そこまで、話したところで、「影」とは何であるのかについて、以前、どこかに書いていたはずだと思いはしたが、それがどこであったのかが、すぐには思い浮かばなかった。家に帰って、やっと『万葉語誌』(筑摩選書)の項目「かげ【光・影・陰】」であったことを思い出した。十年ほど前に書いたことをすっかり忘れているのだから、まことに呆れるばかりである。しかも、それを読み返すと、あれこれ考えていたことがわかって、驚くとともに、改めて記憶の衰えを突きつけられたような気がした。老化はまことに恐ろしい。
だから、『万葉語誌』をお読み頂ければよいのだが、そこでの標題を「かげ【光・影・陰】」としたように、「かげ」という言葉には、「光」「影」「陰」の意味が含まれている。
しかし、千葉の講義で述べようとしたのは、最初にも記したように、「影」が、霊的なものの本質、さらにいえば人や物の存在の根源、生命力の本質が外部に現れ出た状態を意味するということだった。つまり、「影」とは魂の姿でもあったことになる。
講義では、そこから「影」こそが、人の存在にとって、根源的な意味をもつとも述べた。「影」を失えば人は死ぬ。このことも、『万葉語誌』には記されており、「影」が薄くなることを人の死の前兆と捉えたり(「○○さんが死んだって。そういえば、この間会った時、妙に影が薄かった」など)、あるいは「影取り」という妖怪がいることについても、紹介している。水に棲む妖怪の一種だが、その「影取り」が往来の人の「影」を取ると、その人はまもなく死ぬとする伝説が全国各地にある(柳田国男『妹の力』)。
そんなことを述べた後で、これは日本だけのことではないとして、二つの例を挙げた。これは『万葉語誌』には記していない。
一つは、ディズニー映画『ピーター・パン(Peter Pan)』で知られる例である。原作の『ピーター・パンとウェンディ』(J・M・バリ)にも出て来るが、以下は未確認のまま話したことなので、記憶違いもあるかもしれない。ウェンディの部屋に、夜、ピーター・パンが忍び込むが、子守役の犬のナナに「影」を食いちぎられる。後日、それを取り戻しに、妖精ティンカー・ベルと一緒にピーター・パンがやって来るという話である。ウェンディに「影」を縫い付けてもらい、ウェンディやその弟たちと共に、ネバーランドへの冒険の旅に向かうという筋書になる。
ピーター・パンは、なぜ「影」を取り戻しに来るのか。説明はないが、「影取り」の伝説と同様、「影」を失えば、ピーター・パンは死ぬことになるからだろう。ならば、ここでも、「影」は生命力の本質と結びついていたことになる。
もう一つの例は、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『影のない女(Die Frau ohne Shatten)』である。台本は、フーゴ・フォン・ホフマンスタール。
複雑な筋立てのオペラで、あらすじを一口に述べるのは難しい。このオペラは、バイエルン州立歌劇場の日本公演(W・サヴァリッシュ指揮、市川猿之助(三代目)演出、1992年)でしか見たことがない(余計なことながら、この来日公演の演目に「フィガロの結婚」もあり、伯爵夫人をルチア・ポップ(私の最も好みとする歌手)が演じた。翌年逝去しているから、それが彼女を見た最後になった)。
このオペラだが、霊界の王の娘が、東洋の島国の皇帝の皇后となるが、人間界にありながら、この皇后には「影」がない。「影」をもつことができなければ、「子」をもつこともできず、しかも皇帝はやがて石に化してしまうとされる。そこで、皇后は、仕立屋の妻の「影」を、納得づくで貰い受けようとする。そこまでが前半になるが、ここでも「影」が、人という存在の根源にかかわる象徴的な意味合いをもたされていることがわかる。ホフマンスタールがそこまで意識していたかどうかはわからないが、「影」はやはり生命力の本質と結びついていると考えざるをえない。
子どもの遊びの「影踏み」も同じように見てよい。鬼に「影」を踏まれると、鬼になる遊びである。大昔の「朝日新聞」連載の漫画「クリちゃん」(根本進の作、これも覚えている方はどのくらいいるのだろう)に、クリちゃんが「影」を踏まれぬよう、サボテンの鉢の前に立っている場面があったのを思い起こす。この「影踏み」にも、生命力の本質としての「影」のありかたがよく現れているように思う。
以上、千葉の講座で話したことの延長として、「影」について記した。「雑感」ともいえないので「研究」に分類しておく。