一昨日(11月1日)、専修大学の生田校舎で、兵藤裕己氏の講演「盲僧(琵琶法師)の語り物伝承をめぐって」を聞いた。
兵藤氏が、長年にわたって、ほぼ独力で採録した、最後の盲僧(琵琶法師)ともいうべき、山鹿良之(やましか・よしゆき)師の映像資料を紹介しつつ、兵藤氏の独壇場(どくせんじょう)ともいえる、盲僧(琵琶法師)の語りについての、二時間近くに及ぶ、実に興味深い内容の講演であった。とりわけ、山鹿師の説経節を語る映像は、九十歳近い老人の芸とはとても思えぬ、異様な迫力に満ちており、深い感銘を覚えた。
講演の主眼は、当道座(とうどうざ)の権威の象徴ともいえる正本(しょうほん)の、いわば正統的な語りと、その背後に存在したに違いない盲僧(琵琶法師)たちの多様な語りとの相違を、山鹿師のような芸と引き比べることで、明らかにするところにあったように思う。
この講演を聞いているうちに、前々から疑問に思っていたことが、また頭に浮かんで来た。「平曲」の語りについての疑問である。
「平曲」は、大昔、岩波ホールで、聞いたことがある。仙台の館山甲午(たてやま・こうご)、名古屋の井野川検校(いのかわけんぎょう)などの演奏を聞いたはずだが、資料が行方不明で、探せない。その「平曲」だが、正直なところ、それほどおもしろいものとは思えなかった。あまりにも、平板、単調に過ぎると感じられたからである。平家の本来の語りが、こんなものだったとしたら、なぜそれが広範な享受者層を獲得し、膨大な伝承の集積を生んでいくのかが、まったくわからなかったからである。
その疑問を呼び起こしたもともとの理由は、狂言にある。狂言の「平家節(へいけぶし)」、つまり狂言の中で演じられる「平曲」が、頭にちらついてしまうからである。狂言の「平家節」は、座頭狂言の「瞽女(ごぜ)座頭(和泉流では清水(きよみず)座頭)」「丼礑(どぶかっちり)」「猿座頭」「鞠(まり)座頭」などに見える。大蔵流の虎明(とらあきら)本から、詞章をわかりやすく修正して、引用すると、
抑(そもそも)、一の谷の合戦破れしかば、源平互に入り乱れ、掛かる者は頤(おとがい=あご)を切られ、逃ぐる者は踵(きびす=かかと)を切らるる者もあり。忙(いそが)はしき時の事なれば、踵を取って頤に付け、頤を取って踵に付けたれば、生(は)やうずる事とて、踵に髭(ひげ)がむっくりむっくりと、生えたりけり。冬にもなれば、切れうず事とて、頤に皹(あかがり=あかぎれ)が、ほっかりほっかりと、切れたりける。
軍記物の一節のような始まり方だが、その捩(もじ)りともいうべく、かなりふざけた内容になっている。
これを「平家節」で語るのだが、きわめて複雑な曲節で謡われ、先に平板、単調と評した「平曲」の語りとは、大いに違っている。この狂言の「平家節」は、座頭狂言ではないが、「昆布売(こぶうり)」にも見える。これは、昆布売りの口上を、「平家節」の節を借りて謡うだけなので、右とは区別すべきかもしれないが、これも同じく複雑な曲節をもつ。
狂言の「平家節」が、本来の「平曲」と、どのように関係するのか。ここが、まったくわからない。池田廣司・北原保雄『大蔵虎明本 狂言集の研究 本文篇中』の「どぶかっちり」の頭注には、「平家を語る節。現行によると(現行の舞台演出によるとの意―多田注)、平曲の節(ふし)を狂言独特の手法でねじってうたう」とあるが、説明に具体性を欠くので、これ以上はわからない。
日本古典文学全集『狂言集』の「鞠座頭」の頭注には、「…『平家物語』の一節のような体裁で始まるが、あとはいたって滑稽な内容になる。平家琵琶の前座として小座頭の語る「滑稽早物語」の類を応用したものかという説がある」とある。その説がどういうものなのか、不勉強ゆえわからないが、「滑稽早物語」を「早物語」と同様なものと捉えてよいなら、それは違うのではないかと思う。
「早物語」は、いまはまったく絶えてしまったようだが、小沢昭一の『日本の放浪芸』に、山形で採録したという、貴重な録音の記録が残されている。なるほど、これは、瞽女(ごぜ)や座頭の前座を勤める見習いの者(小座頭)の芸らしい。しかし、滑稽(猥雑)な内容を早口で語るだけで、狂言の「平家節」のような、複雑な曲節とはほとんど無縁に感じられる。その「早物語」が「滑稽早物語」と同様であるなら、その応用という説には、そのままでは従えないように思う。
そこで、元の疑問に立ち戻る。そうした、複雑な曲節をもつ狂言の「平家節」が、そもそもどこから生まれたのか。あるいはまた、現在の「平曲」、当道座によって統制された「平曲」以前の「平曲」のありかたが、ひょっとすると、この狂言の「平家節」に残されているのではないか、という疑問である。もっとも、後者の疑問は、私の妄想に近いかもしれない。
狂言の「平家節」で注意したいことがある。座頭狂言で「平家節」を語るのは、基本的には、座頭ではなく、勾当(こうとう)である。このありかたは、当道座における身分を反映している。勾当でなければ、「平家節」は語れなかったことになる。これは、あきらかに、本来の「平曲」と重なる。だからこそ、「平家節」と「平曲」の関係を探る必要を感じるのである。
だが、遺憾なことではあるが、ここから先が、まったくわからない。どなたか御教示いただければ幸いである。
小沢昭一の『日本の放浪芸』に触れたついでに、一言。私が所持しているのは、古いカセット版だが、その第四巻「語る芸 盲人の芸」に、先の「早物語」が収録されている。その巻の「肥後琵琶」のところには、山鹿良之師の「荒神ばらい(竈(かまど)ばらい)」「玉代姫一代記」なども収録されている。昭和45年10月の録音とある。
山鹿師の公演は、これもずいぶん昔、兵藤氏の肝いりで、浅草の小屋(木馬館だったか)で、実際に聞いたことがある。
小沢昭一のこの画期的な労作もそうだが、あの頃は、芸能の始原、放浪芸のような芸能に、ずいぶんと関心が集中していた。ワザヲギなどという言葉(古代ならワザヲキだが)が、あちこちで飛び交っていた時代だった。