長年、疑問に思って来たことを書いてみたい。論文の査読についてである。後半は、かなり過激な発言になるが、御容赦願いたい。
近年は、業績審査が細かくなり、学術雑誌に採用された査読論文が何本あるかが、重要な評価基準とされるようになった。
以前、日本学術振興会の学術システム研究センターの専門研究員を勤めたことがあり、その際にも意見を具申したことがあるが、査読論文の数を評価基準とすることは、そもそも人文学にはなじまない。人文学においては、著書(単著)の有無こそが、もっとも重要だからである。一方、理系の諸分野では、著書とはむしろ一般書ないし啓蒙書に近いものであるらしく、査読論文の数を評価基準とすることを当然のこととしている。業績審査の基準は、理系の評価基準を基本としているから、査読論文の数がもっとも重視されることになる。反対に、著書は付けたりのように軽視される。その著書も、単著も共著もすべて一括りである。執筆者が相乗りのような論文集であっても著書(共著)に分類されるというのは、どう考えてもおかしい。いろいろと意見は具申したものの、多勢に無勢、おそらくいまに至るまで、この評価基準は変わっていないのではないかと思う。
査読論文に絶対的な意味を持たせるのも、国文学の世界の実情とは、ズレがある。その理由は、依頼論文(当然ながら査読がない)の評価が著しく低くなるからである。
依頼論文というのも大雑把な言い方だが、依頼によって執筆する論文をいう。以前は、国文学の世界には、商業誌としての学術雑誌がいくつかあり(『文学』『解釈と鑑賞』『国文学』など)、それらはすべて依頼原稿を中心に編集されていた。査読論文の掲載を前提とする学術雑誌(その多くは国文学関係の諸学会が編集する学会誌)でも、シンポジウム、講演などの記録、特別なテーマによる企画を収める際には、その大半は依頼論文で構成される。巻頭論文を依頼論文と定めている学術雑誌もある。
それゆえ、国文学の研究者にとっては、依頼論文を執筆することの方が、ずっと多いことになる。私の場合でいえば、近年、依頼論文以外は執筆したことがない。その依頼論文が、査読論文よりも価値が劣るとするのは、実情からは遊離している。以前は、商業誌としての学術雑誌から原稿執筆の依頼を受けることは(低額とはいえ原稿料がもらえる)、一人前の研究者として認められたことの証しでもあったから、実にうれしいことだった。ましてや、巻頭論文の依頼を受けることは、研究者としての名誉でもあった。実情から遊離していると述べた理由はそこにある。
理系の評価基準が査読論文の数に置かれることの理由はよくわかる。それと同時に、その基準を人文学にあてはめることに無理があるということも、自信をもって断言できる。理系の学問と文系の学問、とりわけ理系の学問と人文学との間に存在する、本質的かつ絶対的な違いが存在するからである。それについては、「人文学の活性化のために考えておくべきこと」『文学部の逆襲』(塩村耕編、風媒社)などで述べたことなので、ここでは繰り返さない。
だが、いまの評価基準が絶対である以上、若手の研究者(とくに大学院生)にとっては、査読論文の数を増やすことは、ほとんど至上命令のようになっている。さまざまな業績審査を受ける必要上、やむをえないことでもある。
もっとも、査読論文なら、採用された雑誌が何でもよいということにはならない。まずは、全国的な規模の学会が刊行する学会誌が基本となる。大学紀要、大学の学会が刊行する学術雑誌は、掲載論文が査読を経たことを謳ってはいても、その評価は著しく低くなる。お手盛りの感が拭えないからである。大昔、谷沢永一氏が、「くたばれ!大学紀要」のタイトルで、大学紀要のありかたを痛烈に批判したことがあった(『紙つぶて』)。その批判の中心も、査読がお手盛りである(あるいはまったくない)ところにあったように思う。
大学の学会が刊行する学術雑誌でも、『国語と国文学』『国語国文』は別格であり、これに掲載された場合、全国的な規模の学会が刊行する学会誌よりも、評価は概して高くなる。
そこで、冒頭に述べた論文の査読についての疑問に戻る。それは、査読についての一切がほとんど開示されないことへの疑問である。具体的にいえば、査読者が誰なのか、また査読の結果の詳細がどうであるのかが、開示されないことへの疑問である。ある論文が不採用となった場合、誰がどのような理由で不採用にしたのかは、通常、まったく明らかにされない(不採用の理由を、限定的ながら開示するところもないわけではない)。これは、不合理であるとともに、学問の公正を根底から損ねる(採用となった場合も事情は同じだが、多く問題となるのは不採用の場合である)。
査読者が誰であるのかを公表しない理由として、査読者への不正な働きかけを防ぐためだとする説明を聞いたことがある。だが、それは理由にはならない。働きかけがあれば、突っぱねればよいだけのことである。査読者が誰であるかが知れると、不採用にしにくいとする説明も耳にしたことがある。査読者と投稿者の関係への配慮のようだが、これもおかしい。査読者であることを公表されて困るような者は、査読者になるべきではない。
不採用の理由が投稿者に開示されないのは、さらに問題である。査読者が不採用と判断したなら、その理由を査読者が誰であるのかも含めて詳細に開示すべきである。その理由を自信をもって述べられないとすれば、やはり査読者になるべきではない。
なぜ、このようなことを述べるのか。私の教え子の投稿論文が不採用になることがあり、私にも納得しかねることが何度かあったからである。不採用の理由を、ごく簡単に開示してくれる場合もあるが、どう見ても誤読としか思えず、査読者の能力(学力?!)に疑問を感じることもあった。恣意的(不公平)な意見と感じられることもあった。
簡単な開示はあっても、査読者が誰であるかまでは明らかにされないから、疑問があってもそこどまりで終わってしまう。
ここに述べたことは、査読者を攻撃する意図からではない。もしも、学問的な対立が根底にあるなら、異論が生じた場合、査読者も堂々と渡り合えばよい。その自信がないなら、ここでもやはり査読者になるべきではない。
いつからか、国文学の世界では(でもか?)、対立を避け、何事も穏便に済ませようとする雰囲気が濃厚になりつつある。また昔話になるが、大学闘争の直後は、見解の対立については、お互いが真摯に渡り合った。学問を進めるためには、徹底した議論は避けるべきではない。いまや、そうしたありかたがまったく喪われてしまった。対立を避けようとするなど、あまりにもひ弱である。かといって、批判的な意見を述べると、すぐにパワハラ、アカハラと指弾される。それは学問の衰退であろう。和気藹々、仲良くするのがよいことではない。
まずは、右に述べた、論文の査読のありかたを、学会等でぜひ検討してもらいたい。