先日の「朝日新聞」(4月8日付朝刊)の一面に「国立大学法人化20年 本社調査」と題する記事が載っていた。その見出しには「学長7割「悪い方向進んだ」」「運営費交付金減り、雇用・研究危惧」とあり、さらに二面にも「減る交付金 あえぐ国立大」と題する記事が収められている。
国立大学の法人化は、2004年のことだから、なるほど20年が経過したことになる。私自身の肩書からも、この時「文部教官」の文字が消えた。
国立大学の法人化は、その前史がある。1991年の大学設置基準の大綱化によって、ほとんどの国立大学の教養部が廃止されたこと、さらには大学院重点化が進められたことである。
この流れ、とりわけ大学設置基準の大綱化は、大学の大衆化の現実を背景に、教養主義を基礎においていた大学のありかたを改め、実学重視を一段とつよめようとする意図が根底にある。大綱化は、規制緩和の方策であり、その結果として、以前なら大学とは呼べないような大学が次々と生まれた。私など「大学の専門学校化」だと皮肉ったことがある。実際には「専門学校の大学化」であったのだが、どちらにしても同じことである。
その結果、何が起こったのか。大学の教養主義を支えていた文系基礎学が軽視されるようになり、それが今日の人文学の危機にまで及ぶことになる。
そこで、表題にした「中野三敏さんの警告」である。中野さんは、1998年3月、『読切講談 大学改革』と題するブックレットを、岩波書店から刊行した。その副題には「文系基礎学の運命や如何に」とある。
これをいま読み返すと、今日の人文学の危機が、そのままに予言されている。「大学改革」と称する大綱化以降の流れが、文系基礎学にとっては、改革どころか「三十年後、五十年後には大変に利いてくるボディー・ブローのようなものと思います」とも述べられている。その予言――ここでは、警告と言い換えるの適切かと思うが、それがまさしく的中したことになる。
中野さんのブックレットは「読切講談」とあるように、戯文調ではあるが、文系基礎学の置かれた実情、そしてその悲嘆すべき将来が明瞭に述べられている。
それでは、このブックレットは、当時、どのように受けとめられていたのか。私にとっては、中野さんの述べることは、まことに肯くばかりであったのだが、次のような声を耳にして、驚いたことがある。――「あれは国立大学のことで、俺たち私学には関係ないことだ」。
中野さんの警告は、だから、全体としては、きちんと受けとめられなかったことになる。
この中野さんの抱いた危機意識が、日本文学(国文学)の分野に関してのことではあるが、諸学会の連合組織である日本文学関連学会連絡協議会を発足させる契機になったと見てよい(参照:中嶋隆「(子午線)日本文学関連学会連絡会議」設立について」『日本文学』1997年9月号)。ところが、この協議会は、中野さんの意図したような方向には進まなかった。文系基礎学の置かれた危うい現状に、日本文学関係の諸学会が問題意識を共有し、そうした現状に連帯して立ち向かって行くような運動体にはついになりえなかった。
協議会の設立に加わった諸学会には、そもそも現状をめぐる理解に温度差があり、結果として、相互の学会情報を単に連絡しあうだけの場に落ち着いてしまったからである。そこには、先の「あれは国立大学のことで、俺たち私学には関係ないことだ」とする反撥にもつながる意識があったように思う。私など、このことをひどく残念な思いで、それ以上にむしろ苦々しい思いで見ていたのだが、そのまま虚しく四半世紀が経過してしまった。いまの現役世代の研究者は、右に述べた経緯など、まったく知らないに違いない。
そこで、この中野さんの警告以後のことを述べておく。中野さんの予言どおり、文系基礎学、人文学にとって、事態はますます悪い方向へと進んだ。大学院重点化は、限られた国立大学にとっては利点がなかったわけではないが、それが全国に波及すると、利点のないままに、大学院を置く、あるいは拡大する大学が増えた。結果として、いたずらに大学院生の数ばかりが増えることになったが、これはむしろ大学院全体の質を大きく低下させたと見てよい。
さらに問題は、大学経営の場にも、新自由主義の風潮が大きな影を及ぼすようになったことである。その一つの転換点が、冒頭の「朝日新聞」の記事に見える国立大学の法人化である。これを主導したのが、新自由主義の旗振り役で、郵政民営化などを推し進めた小泉純一郎である。その後(あと)を引き継いだ安倍晋三ともども、新自由主義を標榜する愚劣な政権が続くことになるが、このブログでも再々述べたように、小泉、安倍の政権を、国民が圧倒的に支持した事実はここでも忘れるべきではない。
国立大学の法人化が、大学にとって負の状況しかもたらさなかったことは、先の「朝日新聞」の記事からも明らかだが、事態はますます悪い方向に進んでいる。全体主義の風潮が、大学にも及び、文科省の統制が一段とつよめられるようになったからである。教授会の権限は失われ、大学の管理権はすべて学長に集約されている。その学長の選出も、いまや学内(大学構成員)の意向を反映したものではなくなっている。外部の有識者の意見を取り入れるというのだが、それは文科省の、さらにいえば首相官邸の主導によって、すべてを統御していこうとする、全体主義的な発想が根源にある。これも以前のブログに記したことだが、学術会議会員の任命拒否問題の根源もここにある。「金は出さないが、口だけは出す」というのが、新自由主義論者の主張らしい。
こうした流れの中で、文系基礎学、人文学の危機は、ますますつよめられていく。とりわけ、文学研究を取り巻く状況はなかなか厳しいものがある。先に、日本文学関連学会連絡協議会の名を出したが、日本文学の場合、いまや学会の統合を考えるべきところにまで状況は切迫しているように思われる。これも先に、いたずらに大学院生の数ばかりが増えてと記したが、それとは反対に、いまや大学院に進学しようとする学生の数がどこでも減っている。それと呼応するかのように、論文の質の低下も著しい。実のところ、かなり悲観的な状況になりつつある。
「朝日新聞」の記事を見たところから、中野さんの警告を思い起こし、そこからあれこれと述べ連ねた。それらは、「人文学の活性化のために考えておくべきこと」(塩村耕編『文学部の逆襲』、風媒社)等等に記したこととも重なるから、それらも参照していただければ幸いである。