またしても英語の学習用新聞“the japantimes alpha”を読んでの感想である。新年度になって誌面が大幅に刷新され、映画紹介の欄が半分に縮小されたりしたのだが、楽しみに読んでいたEssay欄はそのまま残ったので、これはよかったと思っている。
このEssay欄は、幾人かの筆者が交代で執筆しているのだが、先週号の南アフリカ在住のJohn Maylan氏の“Scrolling away our forcus―the attention span problem”は、考えさせる問題を含んでいて、実に興味深い内容だった。邦題には「スマホに奪われる集中力」とある。
筆者が述べることの中心は、スマホあるいはソーシャル・メディアの急速な展開が、人々の集中した思考の機会を奪い、結果として、あらゆる情報を要約された短文の形式でしか受け入れられなくなっている現状への危惧を示すところにある。
TLとかDRとかの言葉があることも、ここで初めて知った。TL,DRで、Too Long,Didn't Readの意味だという。長すぎるものは読まないということで、本などは、読むのに時間が掛かるから、端(はな)から敬遠されているのだという。中国やアメリカなどでは、micro-dramasなるものが流行っており、これはわずか二分ほどで完結するepisodeなのだという。厭な現代語だが、これはタイパということの具現でもあるのだろうか。
筆者は、ケープタウン在住のようだが、14歳と16歳の娘がおり、その娘たちの通う学校の話も紹介されている。TL,DRの現実にあわせて、学校の授業は一コマ45分が30分に切り詰められたという。生徒たちの集中的な思考が、45分も持続しえないためだという。筆者は、それもいずれ15分に切り詰められるのではないかと、冗談めかして述べているが、ひょっとすると今後ありうべきことなのかもしれない。
本を読むことは、たしかに長時間の集中力を必要とする。しかし、それを経験する中で、人は自分の頭で物事を思考する能力を獲得する。自分自身の精神もまた鍛えられていく。スマホやソーシャル・メディアのあらかじめ要約された短文の情報は、アルゴリズムの手法による生成の結果でもあるというから、もっともらしくはあっても、その真偽など、まったくあてにならない。そんなものを疑いもなく受け入れるというのは、実のところ恐ろしい。だが、それがいまの状況でもあり、ヤフコメとやらの愚劣な投稿の羅列を見ると、知的な退廃を思わずにはいられない。それが力をもつこの現実は何とも危うい。もしも、要約された情報に悪意あるバイアスを、誰かが仕掛けようと意図したら、それは案外とたやすく出来そうにも思われる。全体主義国家を見れば、そのことはすぐに想像できる。
本質的なところを、自分の頭で考えるのを苦痛に思って嫌悪すること、あるいは他者と徹底した議論を行うのを避けたがること、こうしたことが蔓延すれば世界はますますおかしくなっていく。私がスマホを嫌うのは、この小さな器機が、人々を愚かな存在にしていく道具のように思われるからである。思考を奪う道具そのものだ、といってもよい。そのことは、先のブログ「小さくなる財布」にも、少し記した。
もう一つ、このエッセイから知った言葉がある。acronymsである。頭字語というらしい。北大西洋条約機構North Atlantic Treaty Organizationを、それぞれの頭文字をとって、NATOのように表記したりするのが、それだという。こうした頭字語も、情報の要約と連動しているというのだが、昨今、なるほどあちこちに見られる。ただし、見ただけでは、何を意味するのかわからないことの方が多い。たとえば、chatGTP。このGPTが、Generative Pre-trained Transformerの頭字語であることを、どのくらいの人が理解しているのだろうか。
以上のことは、AI(Artificial Intelligence これも頭字語)の進化とも裏表であるのだが、これが人々の生き方をどう変化させていくのか。なかなか危ういところにまで来ているように思われるのだが、学校教育の場などでは、これとどう向き合うのかは、いまだに模索中のようである。困ったことである。