ごく最近、私のブログを見た知人から、こんな感想をもらった。このブログには、異論・反論を望むと明記してあるにもかかわらず、そうした類のコメントがまったく見られない、コメントそのものが、そもそも少ない、というのである。
これはまったくの事実で、私のブログをわざわざ読んでくれる奇特(きどく)な人など、そうはいないからである。だから、コメントも少ない。それ以上に、私がこのブログを始めたのは、「ブログ、筆者紹介」に、「『大鏡』に、「おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける」とある。それゆえ、腹のふくれないよう、ここでも思うことをすっかり述べてしまいたい」と記したように、腹に溜まったあれこれの鬱憤を、吐き出す手段とするためだった。だから、これを読んで下さる方が、どれほどいるかは、初手から考慮の外だった(もちろん、読んで下さればうれしい)。
だから、このブログは、私の「不満の吐け口」であったことになる。ここまで書いて、思い当たったのが、落語の「堪忍袋」である。このブログこそが、私の「堪忍袋」である、とも言えるからである。
「堪忍袋」は、三代目三遊亭金馬が得意としていた話である。ある貧乏長屋に、始終喧嘩ばかりしている夫婦がいた。それを見かねた町内の旦那が、その女房(喧嘩夫婦の女房)に、袋を縫うよう勧める。腹が立ったら、夫婦どちらであっても、その袋の中に、憤懣のすべてを吐き入れて、袋の口を紐で縛ってしまえ。そうすれば、喧嘩をしないで済む、というのである。その袋が「堪忍袋」である。
言われた通りにすると、「堪忍袋」は、少しずつ膨らんでいくが、夫婦仲はなるほど円満になる。その評判を聞きつけて、長屋の連中も、何か揉め事が起こると、「堪忍袋」を借りに来る。それで、ますます袋は膨らんでいく。
これ以上はもう限界、というあたりで、長屋でも札付きの酔っ払いがやって来て、袋を貸せと迫る。袋はもう一杯だからと断るが、酔っ払いは、無理やり袋を奪い取り、「さあ、中に不満をぶちまけよう」としたところで、袋の紐(つまり「堪忍袋の緒」)が切れ、中に閉じ込めてあった、それまでの喧嘩のもろもろ、鬱憤、不満のあれこれが、一斉に飛び出して来た、という話である。そのサゲのところが、演者の工夫の見せ所になる。
この「堪忍袋」は、古典落語ではない。新作落語である。作者は、益田太郎冠者(ますだ・たろうかじゃ)。三代目三遊亭圓馬のために書き下ろした話らしい。金馬は、もともと圓馬からこの話を教わり、ずいぶん後に、やはり圓馬の指導を受けた、三代目春錦亭柳桜からあらためて教えを受けたという。
そこで、余談に渉(わた)るが、その益田太郎冠者について、記してみたい。いまは、ほとんど知られていない人物だからである。
益田太郎冠者の本名は、益田太郎。財閥、三井コンツェルンの総帥(そうすい)であった益田孝(茶人としても知られた鈍翁(どんのう))の長男(実際には次男だが、兄が生後すぐ病死したため、長男として育てられた)である。書生や女中、使用人を何人も抱えた、品川御殿山の大豪邸、碧雲台(へきうんだい)で育った。
若い頃に、イギリスに留学、名門のパブリック・スクールを卒業している。大陸にわたり、ベルギーの大学を卒業、ヨーロッパのあちこちを歩き、英語、フランス語がきわめて堪能であった。
帰国後は、父の後(あと)を受けて実業界に入り、台湾精糖など、さまざまな会社の重役となるが、父のように財界全体を牽引するほどの資質はなかったらしい。
その代わりというべきか、益田太郎には、芸能の世界にたいするつよい関心があった。余技には違いないが、帝国劇場の重役となり、女優劇の座付作者となるなど、数多くの演劇の台本を残している。留学中に、芝居やボードビル、あるいはオペレッタなどを、ずいぶんと見て回ったというから、それが演劇、とりわけ喜劇への関心につながることになったのだろう。留学中、そうした軽演劇の舞台に通いづめであったというのだから、その語学力は並大抵のものではない。益田太郎冠者は、その余技の世界での筆名である。
益田太郎、すなわち益田太郎冠者は、小唄のような俗曲にも関心があったらしく、洋式小唄ともいうべき「コロッケの唄(コロッケー)」なども作っている。「コロッケの唄」は、音楽喜劇「ドッチャダンネ」(これも太郎冠者の作)の中で歌われる。大正期に、一世を風靡(ふうび)するほど、大流行した。「…今日もコロッケー 明日もコロッケー これじゃ年がら年じゅうコロッケー…」という歌詞である。
益田太郎冠者は、落語もいくつか作っている。「堪忍袋」は、その一つである。
益田太郎冠者の作った落語の中で、私がもっとも好きなのは、「堪忍袋」ではなく、「かんしゃく」である。古典落語一筋と思われがちな、八代目桂文楽が、これを得意としていた。いま録音を聞き返しても、絶品といえる。
大会社の経営者とおぼしき主人公が、自家用車で家に戻ると(自家用車に乗るのが特権階級に限られた時代、むろん運転手つきである)、掃除はまったく行き届いておらず、戻る時刻を連絡したにもかかわらず、食事の用意も出来ていない。そこで、書生や女中、使用人たちを大声で怒鳴りつける。妻にまで当たり散らす。この繰り返しに辛抱できなくなった妻は、家を出て実家に戻るが、そこで父親から懇々(こんこん)と諭(さと)される。その忠言に従って、夫のもとに戻る。今度は、書生以下にしっかりと言い含め、お小言(こごと)が出ないよう、周到に準備して、夫の帰りを迎える。どこを見ても、まったく文句の付けようがないので、夫は妻にこう怒鳴る。「これじゃあ、怒ることもできない」。
この「かんしゃく」の主人公は、どうやら益田太郎冠者本人にそっくりであるらしい。戦前の日本の、もっとも豊かであった時代の、その生活を彷彿(ほうふつ)させるような話だと思う。もちろん、厳然とした階級社会であること、男尊女卑の観念が底流に存在することは確かだが、それにしてもこの話は、生活に大きな余裕があった、よき時代のよき話であると思う。
益田太郎冠者について記した本がある。高野正雄『喜劇の殿様 益田太郎冠者伝』(角川叢書)である。著者の高野氏は、元毎日新聞の記者。もともとは、獅子文六(しし・ぶんろく、劇作家としては、岩田豊雄)に、益田太郎冠者を主人公とする新聞小説を書いてもらう約束があり、高野氏は、その資料集めに奔走したらしい。ところが、獅子文六はあっさりと亡くなってしまう。そこで、高野氏は、残された資料をもとに、益田太郎冠者の伝記を執筆しようと思い立つ。原稿がほぼ完成したところで、今度は高野氏も亡くなってしまう。
『喜劇の殿様』は、その高野氏の遺稿を、旧知である渡辺保氏が整理して刊行したものという。実に数奇な成り立ちの本である。上に記したことの多くは、この本に拠っている。