雑感

草刈り小僧とは・続

投稿日:

草刈り小僧が何であるのかがわからないと、先のブログ「草刈り小僧とは」に記した。昨日、芭蕉の句について教えて下さったN氏から、有力な情報を頂戴したので、以下に紹介する。

N氏によれば、草刈り小僧とは、『水滸伝』の冒頭に現れる、黄牛に乗って鉄笛を吹く童子なのではないか、というのである。

勅使として、道通祖師に会うため、竜虎山の山奥に、たった一人、危地に陥りながらも分け入った洪大尉が、皆が制止するのも聞かずに、伏魔殿に封じ込めてあった、三十六員の天罡星(てんこうせい)、七十二座の地煞星(ちさつせい)を解き放ってしまうという、すべての発端となる回である。
洪大尉は、山奥に向かう途中、黄牛に乗って鉄笛を吹く童子と出会う。その正体こそが、実は道通祖師なのだが、洪大尉はそうとは知らずに、その童子と分かれてしまう。洪大尉は、上清宮の住持たちから、その正体を聞くまで、童子をずっと「牧童」だと思っている。ここには、「草刈り小僧」の言葉は見えない。

ところが、『水滸伝』を意訳した吉川英治の『新・水滸伝』を見ると、洪大尉(吉川は洪大将とする)は、やはり牛の背に横乗りに乗り、鉄笛を手にした童子と出会う。さらに、その正体を訝(いぶか)しんだ洪大尉の言葉に答えて、童子は「こう見えても、人里の草刈り小僧とはわけが違う」と応じている。

「自分は草刈り小僧風情ではない」というのが、童子の言い分ではあるのだが、ここには確かにその言葉が出て来る。金馬は、それを意識したのではないか。――それが、N氏が教えて下さった情報である。

これはいかにもありそうなことである。金馬は、吉川英治の『新・水滸伝』を読んでおり、それで、牛に乗った童子の像を、「草刈り小僧」の言葉とともに記憶していたのだろう。博覧強記の金馬は、『笑府』なども読んでいたから(このブログ「点取り」に記した)、『新・水滸伝』に目を通していたとしても一向不思議ではない。

N氏には、再々の御教示を感謝したい。なお、『水滸伝』は、手許にある平凡社の完訳四大奇書を、『新・水滸伝』は青空文庫を参照した。

-雑感

Copyright© 多田一臣のブログ , 2025 AllRights Reserved.