ずいぶん前のブログで、電車の網棚が使われなくなったことについて書いた。
以下もまた、電車の中で感じたことである。
電車に乗ると、空いている席をうろうろと探して座るようになった。少し前までは、立ったままでも一向苦にならなかったから、やはり老いたということなのだろう。
席に座ると、しばしば気になることがある。反対側に座っている人が、自分の荷物を横に置いていることである。席がほぼ埋っていても、そのままにしていたりする。中年を過ぎた女性客に多い。どうやら悪意はなさそうで、目の前に乗客が立つと、荷物をどけてくれる。だから、そうした場合、「座らせて下さい」と、声を掛ければよいのだろう。
私は、しかし、そうして座る客の前に立つのは厭である。声を掛けるのはなお厭である。何でお願いしなければいけないのか、という反撥の思いもある。そこで、席を求めて、別の車両に移ったりする。
だから、私が座る際には、荷物は膝の上に置くか、網棚に載せる。荷物を横に置く人とは、とても折り合えないように思うからである。
だが、そこからさらに考えてみると、私の中に、どうやら見知らぬ他人との直接的な接触(コンタクト)を避ける意識があるらしいことに気づいた。そうした意識は、いまの若い人びとにも共通して見られるが、それがどうやら私にも及んでいるらしい。
夏目漱石の『三四郎』の冒頭で、上京する三四郎が、名古屋で乗り換えた汽車の中で、広田先生と出会う場面がある。もっとも、そこでは、自分の斜め前に座る髭の人物が広田先生であることは、まだ知らずにいる。三四郎の向かいには、ずっと居眠りしたままの男が、もう一人座っている。その男の読み止(さ)した新聞を借りたくなった三四郎は、広田先生に「御明(おあ)きですか」と尋ねる。男が寝ているので、その横にいる広田先生に一言(ひとこと)断ろうとした、ということらしい。広田先生も「明いてゐるでせう。お読みなさい」と答える。このやりとりが、以前から、何とも不思議だった。他人の読み止しの新聞を、こうして借りることは、この当時、異例なことではなかったらしい。「御明きですか」という言い方も、いまの感覚からは、すこぶる違和感が残る。
しかし、こうしたやりとりを見ると、以前は、列車内での他人同士の、こうした何気ない会話が、ごくふつうにあった、ということがわかる。
そこで、始めのところに戻る。おそらく、荷物を自分の横に置くような人は、他人との関係を拒絶するような意識を、さほど持ってはいないのだろう。私のような煩悶を抱く人間など、およそ想像外の存在であるに違いない。なるほど、以前なら、そんな些細(ささい)なことに拘泥する人間など、まずはいなかった。だから、いまも座りたければ、ただ「座らせて下さい」と一言いえば、それで済むのだろう。だが、それでも私は、声を掛けることはしないと思う。心理的な抵抗が、なお消せないからである。いずれにしても、なかなか奥の深い問題が、ここにはあるように思われる。