先のブログ「芭蕉の句」にお名前を出したNさんから、キャンセル・カルチャーという言葉を教わった。cancel culture ――和製英語かと思ったら、歴とした英語である。Wikipediaには、
Cancel culture is a cultural phenomenon in which an individual thought to have acted or spoken in an unacceptable manner is ostracized, boycotted, shunned, fired or assaulted, often aided by social media.
とあり、日本のWikipediaにも「「容認されない言動を行った」とみなされた個人が「社会正義」を理由に法律に基づかない形で排斥・追放されたり解雇されたりする文化的現象を表す」と説明される。言葉狩りもまた、その一つの典型になる。
その言葉狩りで問題なのは、過去の貴重な文化遺産に対しても、それを差別的であるとして、その箇所を取り除くよう要求するような風潮が著しくなったことである。90年代後半以降のことになるだろうか。以下、そうした風潮の影響を受けた、きわめて愚劣と思われる例を、一つ紹介することにする。
以前のブログ「南部坂雪の別れ」で、初代春日井梅鶯(かすがい・ばいおう)について触れた。浪曲黄金時代の、私がもっとも贔屓(ひいき)とする浪曲師である。その梅鶯の演目に、「忠臣蔵」を題材とした「天野屋利平」がある。芝居の「仮名手本忠臣蔵」の十段目と重なるのだが、内容はかなり異なる。
芝居では、大星由良之介(大石内蔵助)が、夜討ちの道具を、天河屋義平(天野屋利平)に用意させるが、由良之助は義平の万一の心変わり、お上に密告するなどの心変わりを恐れ、配下の者を、召し捕り役人の体(てい)に装わせ、詮議のためと称して、夜討ちの道具の入った長持の蓋(ふた)を無理にも開かせようとする。義平は、長持の上にどっかと座って開けることを拒否する。召し捕り役人は、義平の幼子(おさなご)由松(よしまつ)の喉に刀を突きつけて、開けるようさらに迫るが、義平はきっぱりとそれを断る。その際の義平の放つ啖呵、「天河屋の義平は男でござるぞ」は、少し前までなら、誰もが知っていたはずの文言(もんごん)だった。そこで、由良之助が姿を現し、義平の心根を疑ったことを、幾重にも詫びる。
この十段目は、「忠臣蔵」の通し狂言でも、現今では、ほとんど上演される機会がないという。私も見たことがない。あまり後味のよい話ではないからかもしれない。
そこで、浪曲の「天野屋利平」である。大坂西町奉行所に、廻船問屋の天野屋利平が呼び出され、奉行松野河内守の詮議を受ける場面から始まる。夜討ちの道具を拵えさせたというが、誰に頼まれ、誰に渡したのかを白状せよとの取り調べである。だから、設定そのものが芝居とは大きく違っている。
利平は、道具を拵えさせたことは認めるが、誰に頼まれたのかについては、黙したままで、頑として口を割らない。算盤板(そろばんいた)に石を抱いて座らされるなどの激しい拷問を受けるが、それでも白状しない。そこで、芝居同様、ここでも幼子由松(芝居と同名)を火責めにして殺そうと脅すが、やはり口を割らない。「天野屋利平は男でござる」の科白が現れるのも、ここである。
そこに、利平の女房が駆け込んでくる。女房が事情を漏らすのではないかと気づいた利平は、「女房は先日より発狂の気味にて離縁致しておりますれば、何事もお取り上げなきよう」と懇願する。しかし、女房は夫と子どもの大事だとばかりに、取り調べの奉行に、天野屋と浅野家とのこれまでの関係を話し始める。
(女房)「……もし御奉行様、利平に頼んだその人は」
(奉行)「ムゝ、何者なるぞ」
このあたりで、奉行は、一切の事情を忽然と把握する。いよいよ、女房が、頼んだ者の名を、「多分浅野家のオオイ」まで言い掛けたところで、奉行は、
(奉行)「黙れ黙れ、黙りおろうぞ、気違いじゃ、気違い」
と大声で叱り飛ばして、女房の言葉を遮る。もし、この場で大石の名が表に出れば、利平が命を賭してまで守ろうとした仇討ちの苦心が、すべて水の泡になることに、奉行は気づいたのである。
詮議はここで中止となり、利平はその年の暮れまで、牢内に留め置かれることになる。暮れまでというのは、極月十四日の討ち入りを意識した設定だろう。
この筋立ては、先にも述べたように、芝居とは異なるところがある。そこで、先頃頂戴した、古井戸秀夫氏の『忠臣蔵の四季』(白水社)をながめてみた。すると、次のようなことがわかった。この浪曲のような筋書は、すでに討ち入りの翌年、元禄十六年(一七〇三)、加賀藩士杉本義鄰(すぎもと・よしちか)の『赤穂鐘秀記(あこうしょうしゅうき)』に見えており、さらには宝永四年(一七〇七)の序をもつ津山藩の儒臣小川恒充(おがわ・つねみつ)の『忠誠後鑑録(ちゅうせいごかんろく)』にも、ほぼ同様の内容が見られるという。ただし、その主人公の名は、前者は天野屋次郎右衛門、後者は天野屋利兵衛とされる。
一般には、天野屋利平(利兵衛)は実在人物ではあるものの、大石以下の赤穂浪士を援助したのかどうか、疑念があるとされる。しかし、討ち入り直後から、名は違えども、天野屋の名が取り沙汰されているのだから、天野屋のような、大坂、堺近辺の政商の援助があったことは、あってもよいことなのかもしれない。
古井戸氏の本によれば、天野屋利平は享保十八年(一七三三)に没するが、その十三回忌に、天野屋の子孫たちが、菩提寺である住吉の竜海寺に、四十七士の墓を建立し、さらに御堂を寄進して、そこに天野屋利平(利兵衛)、浅野内匠頭などの木像を収めたとある。ならば、利平(利兵衛)が大石たちに助力したことは、天野屋の人々にとっては、確かな事実として受けとめられていたことになる。
それはともあれ、述べたい本題はここからである。梅鶯の「天野屋利平」の録音では、驚き呆れることに、もっとも肝腎な奉行の科白「黙れ黙れ、黙りおろうぞ、気違いじゃ、気違い」の「気違いじゃ、気違い」が、すっぱり消されているのである。不審に思って、添付の別紙を見ると、明らかにそこが消されていることがわかる。その上で、「不適当と思われる言葉は最小限、削除しましたのでご了承下さい」との断り書きも付されている。
これはどう考えてもおかしい。この「気違いじゃ、気違い」がなければ、すべてを見通した奉行の武士の情けは伝わらない。しかも、この科白は、利平の「女房は先日より発狂の気味にて」にも応じている。この削除がわかって、実に腹が立った。これでは、第一、演者の梅鶯に対して余りにも無礼であろう。
この「天野屋利平」は、もともとはレコード盤であったらしい。録音は1963年6月とある。私の手許にあるのはCDだが、発売は1995年9月。テイチクの「日本の伝統芸能 浪曲」のなかの一枚である。
これこそ、先にも記したように、キャンセル・カルチャーの、その言葉狩りのもっとも愚劣な例だと思う。
なお、「気違い」という言葉が忌避される理由もおかしいと、個人的には思っている。そのことについては、このブログ「呆(ぼ)けが進む?」に記したところだが、再度、ここでも繰り返しておく。
言葉狩りは、しばしば和語蔑視、漢語尊重に向かう。それはおかしい。「気違い」などは、歴とした和語である。一方、「精神障害」のような漢語は、絶対的な事実をその本人に突きつける冷たさがある。「気違い」は、語義を考えれば明白だが、実は言葉としてはずっとやさしい。背景となる世界像も違う。「気違い」は「気」の違いで、外部の力に由来する現象をいうから、その人本人を責める意味合いはない。
差別を言い立てるなら、その本質は言葉にはない。「八百屋」を「青果店」、「魚や」を「鮮魚商」と言い換えて、高級になったように感ずるというのは、和語蔑視の現れであり、あまりにも愚劣である。
そのようなことで、この「天野屋利平」のCDについては、これを買い求めた当時、よほどテイチクに抗議してやろうかとも思ったのだが、それは止めにした。現今では、こうした場合、書籍では「この作品には今日では不適切とされるような表現があるが、原文の歴史性を考慮してそのままとした」といった断り書きを入れて、そうした箇所も削除しないのが、通例になっているように思う。私としては、そうした断り書きも不要だと思うのだが、面倒はなるべく避けたいとする意識があるのだろう。その事なかれ主義も、実のところかなり危険な思考だと思うのだが。
なお、この「天野屋利平」も、あるいは女性差別、女性蔑視と言われかねない要素が多く見られるのだが、それも同様に、いま問題にしても、何の意味もないことだと思う。