雑感

われ讃(ぼ)め

投稿日:2024年4月20日 更新日:

「われ讃(ぼ)め」とは、自讃であり、ある場合には自慢になる。『日本国語大辞典』は、初出例を明示することを特徴とする辞書だが、その「われぼめ」のところには、『枕草子』の例が挙げられている。なるほど、『枕草子』には、清少納言の自讃譚が少なくない。挙げられたのも、そうした自讃譚の一つである(「二月、官の司に」の段の「見苦しきわれぼめどもをかし(能因本は「なりかし」)が例示されている)。

この四年近くに及ぶコロナ禍は、私にとっても、実に大きな影響が及んだ。二松学舎大学を五年前に退職し、以後、定期的な勤めは一切なくなったものの、カルチャー・センターなどに出講したりしていたので、外で話す機会は続いていた。ところが、コロナ禍によって、それがすっかり失われてしまった。

外で話す機会がなくなると、頭が呆(ぼ)ける。その理由については、このブログ「呆(ぼ)けが進む?」「同(続)」に記したから、それを繰り返すことは、ここではしない。

たまたま、昨年、オンラインによる画像配信の講座で、『万葉集』についてお話しする機会をいただいた。JPカルチャー・オンライン講座である。
前期7回、後期8回、計15回の講義を収録し、前期は昨年10月から、後期は本年4月から配信が始まっている。
画面に表示されるテロップ、挿入される万葉故地の写真や地図などは、すべて私自身で用意したから、手作り感満載の講座といえるかもしれない。
オンライン配信とはいえ、受講料はかなりのお値段だから、受講して下さる方がどれほどおいでなのか、このあたりはやや心許ない。

この講座を録画したDVDをJPの担当者から貰ったので、先日来、少しずつ視聴している。それが、なかなか面白い。内容もすらすらと頭に入って来る。こんな斬新な見方をしているのか、などと一人で感心している。自分で原稿を拵(こしら)えて、それをもとに話しているのだから、それがすらすらと頭に入って来るのは当たり前で、ましてやそれを面白がって感心するなど、実のところ、尋常の沙汰ではない。文字どおりの自画自賛に違いないから、これこそ「われ讃(ぼ)め」であろう。

しかし、やや冷静になって考えてみると、これもまた頭の呆(ぼ)けのなせる業(わざ)なのかもしれない。自分で拵えた原稿のままに話しているのを、おもしろい、斬新だなどと感じるのは、頭の内部が、どこか歪(いびつ)になっているからなのではあるまいか。客観的な評価ができず、過剰な自己愛のみに支配されるようになった――そう考えるしかないようにも思われる。高齢になればなるほど、自己愛はつよまるという。ならば、この「われ讃め」も、その結果であるのかもしれない。そう考えると、何だか恐ろしい。

とはいえ、本当にそのとおりなのかどうか。未練がましいようだが、自分ではなかなか判断がつかない。そこで、勝手なお願いではあるが、もし受講料を支払ってもよいとお考えの、奇特な方がおられたなら、ぜひ御視聴下さって、その感想をお聞かせ願いたい。
それにしても、このままでは、呆(ぼ)けはますます進行しそうである。だから、どこかで話す機会が得られれば、とも思っている。

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