ヒトラー『わが闘争』はⅠⅡの二巻からなるが、そのⅠ「民族主義的世界観」はなかなか興味深い内容をもつ。最終的にはアーリア民族の優越の主張とユダヤ人排斥とに向かうのだが、大衆という存在の捉え方、さらには大衆の平等を前提とする議会制民主主義への否定的な捉え方が見られるところは、現在の日本の置かれた状況とどこか重なるところがあって、大いに注意される。
前者は大衆の心理について述べているが、言い換えれば大衆の愚かさへの指摘でもある。後者はそうした大衆によって形成される議会制民主主義がいかにいい加減なものであるかについて述べている。平等主義への批判だが、これを裏返せば、貴族主義的政治原理こそが重要だということになる。有能な為政者が愚かな大衆を率いるという構図である。共産党支配の前提ともいうべき前衛という主張(前衛は、さすがに古い言い方か)、就中、それを体現している中国共産党の、徹底して民主化を弾圧しようとする現在の指導原理もこれとまったく同一と見てよい。
それでは日本の場合はどうか。上に記したように、ヒトラーが述べているような状況とどこか重なるところがある。大衆(国民)の平等を前提とする議会制民主主義の危機に直面しているからである。ポピュリズムの蔓延が、危機の一つの現れだが、ならばいまや民主主義を守るのか、あるいはヒトラーや中国共産党のような貴族主義的政治原理に政治のありかたを委ねるのか、さらにはより壊滅的な無秩序状態に陥るに任せるのかの岐路に立たされているのだともいえる。コロナ禍の現状を見ても、議会制民主主義はまったく機能していない。『わが闘争』の述べることは、民主主義の危機について考える契機を提供しているように思われる。
以下は、付けたりとして。
ヒトラー『わが闘争』で、もう一つ驚いたのは、教育について述べた箇所である。物質的価値を重視する現代にあっては、実際的価値のある科目を学ぶことがもっぱら推奨されているということを前提に、ヒトラーはそれ以上に人文教育を重視すべきこと、とりわけ歴史教育が重要であることを主張している。歴史教育云々についてはヒトラーの意図を考えなければならないが、人文教育重視の主張がなされているとは、実に意外なことであった。このあたりも現在の、人文学無用論が跋扈する現在の日本の状況とつい引き較べたくなるところである。人文学無用論、文学部不要論(これも新自由主義の流れから出てくる)がいかに愚劣な主張であるかについては、以下の書物に論を書いた。参照していただきたい。
多田一臣「人文学の活性化のために考えておくべきこと」『文学部の逆襲』(塩村耕編、風媒社)
多田一臣「文学部の逆襲・再論」『文学部のリアル、東アジアの人文学』(江藤茂博編、新典社)