先日、大学院の教え子だったNさんと話していて、話題がなぜか芭蕉に転じた。そこで、私が、芭蕉にはこんな雄渾、雄勁な句があるよといって、以下の句を示した。
吹きとばす石も浅間の野分哉
以前のブログ「丹山大明神①」で触れたように、この句を巨石に刻んだ句碑が、信濃追分の浅間神社の境内にある。もともとは、『更科紀行』に見える句で、寛政五年(一七九三)、芭蕉百年忌にあたって建てられ、春秋庵長翠(しゅんじゅうあん・ちょうすい)の筆になるという。句もいいが、その筆勢もまたすばらしい。それで、この句が頭に浮かんだものと見える。
家に戻って、『更科紀行』をのぞいて見た。ところが、二句目が違っている。
吹きとばす石はあさまの野分哉
とあり、「石も」ではなく「石は」になっている。それで、新編日本古典文学全集『松尾芭蕉集①』の「全発句」にあたって見た。すると、この句は、『更科紀行』の真蹟では、「吹き落(おとす)あさまは石の野分哉」「吹落(おと)す石はあさまの野分哉」などの推敲を経て、「吹きとばす石はあさまの野分哉」になったと説明されていた。当初は、「石の野分」というめずらしい表現が、趣向の眼目だったのだろう、ともあった。
思うに、初句の「吹き落す」を「吹きとばす」とすることで、句柄が一段と大きくなり、そこで、二句、結句を「石はあさまの野分哉」としたのだろう。そこまではよい。
では、なぜ、浅間神社の句碑が「石も浅間の野分哉」であるのか。芭蕉が「は」を定稿としたとしても、芭蕉を敬慕する信濃の俳人たちは、「石は」より「石も」を優れた表現として耳になじませ、それをそのまま句碑に刻んだのではあるまいか。
私も、「石も」がよいと思う。対象に向けた視線が「石は」の場合は、「石」に限局されるが、「石も」の場合は、さらに突き抜けて大きくなると感じられるからである。浅間山に吹き荒れる野分を詠じた句ではあるが、その裏には絶えず噴火を繰り返す浅間山のありようが重ねられている。それが「吹きとばす」でもあろう。
ただし、この句碑が「石も」であるのには、もっときちんとした理由があるのかもしれない。『更科紀行』の流布状況とも関係するから、専門外の私にはお手上げである。ご存じの向きは、どうか御教示を。
(以上の続き)
ここまで書いたところで、『更科紀行』の芭蕉自筆の草稿(沖森文庫旧蔵本)が、伊賀市のデジタルミュージアムで精細画像が公開されていることを知り、さっそくパソコンで閲覧してみた。新編日本古典文学全集『松尾芭蕉集①』の「全発句」で、「真蹟」とされているものにあたる。
なるほどこれは、『更科紀行』の草稿であり、最初の「秋風や石吹颪すあさま山」から、「吹とばす石はあさまの野分哉」までの推敲の全過程を明確にたどることができる。上に記したところでは、「秋風や」の句は省略してしまったが、「全発句」に漏れがあるわけではない。
この草稿の精細画像を見て気づいたことがある。それが、この「は」と「も」の問題に関連して来る。この精細画像には、丁寧な翻字も用意されており、それによれば、草稿では、推敲を経た最後の句は、「吹落す石をあさまの野分哉」の「落す」を見セ消チにして、横に「とはす」、また「石を」の「を」をやはり見セ消チにして、横に「ハ」と傍記しているのだが、そこもきちんと翻字されている。「吹とばす石はあさまの野分哉」が定稿となる過程が、なるほどよくわかる。
ところがである。精細画像をよく見ると、翻字で「石を」としているところが、「石も」のようにも読めるのである。変体仮名では、「を」と「も」とが似る場合もあり、ここも「も」ではないかと思い当たった。そもそも「石を」では、意味が通らない。
とはいえ、これを翻字したのはその道の専門家であろうし、私のように変体仮名にほとんど触れる機会のない人間の思いつきだから、あまりあてにはならない。
しかし、もし私の読みが正しければ、「石も」とする句が草稿にあったことになる。芭蕉も一度は「石も」で考えたことになる。あるいは、このあたりに、先の句碑に刻まれた句との脈絡があるのかもしれない。とはいえ、それを消して「石ハ」にしているのだから、「石も」であったとしても、それはやはり、芭蕉によって捨てられたのだろう。しかし、それでも私は、「石も」の方がよいと思っている。
(続きの続き)
上記の内容を、近世文学の泰斗である友人N氏に話したら、変体仮名の問題箇所は、「石も」とは読めない。この草稿の他の箇所の「を」字の書体と比べても、ここは「も」でなく「を」と読むべきだ、とのことだった。「石を」では、意味が通らないのでは、と重ねて尋ねたら、俳句にはありがちの語法で、「石を」であっても、さほど不自然とはいえない。句碑が「石は」でなく「石も」としているのは、たしかに大きな問題だが、この句を揮毫した春秋庵長翠などが、そのように記憶していたためではないかとの答えだった。自身の不勉強を露呈するようで、まことに恥ずかしいが、つくづく近世文学、とりわけ俳諧の世界の奥深さを学んだ。専門外の人間は、思いつき程度のことを、簡単に口に出すべきではない。そんな反省を覚えた。
(追記)
その後、冒頭に記した、大学院の教え子だったNさんが、春秋庵長翠と信州との関係を調べてくれた。長翠は、戸倉に数年滞在し、その弟子となった宮沢武曰は、後に善光寺俳壇の中心になったという。
追分の浅間神社境内の句碑は、そうした人々の協力によって建てられることになったのだろう。
近世俳壇の活動の広がりには、驚かされる。
「研究」とはいえないが、「雑感」でもないので、とりあえず「研究」に分類する。