先日(11月30日)、山本東次郎師の講演「蝶と狂言」を聴くために、久しぶりに東大に出掛けた。菱川法之博士の蝶のコレクションが、東大の総合研究博物館に寄贈されており、その公開にあわせて、蝶の愛好家である東次郎師に講演が依頼されたらしい。公開されたコレクションはなかなかすばらしく、左右の羽根が非対称の雌雄同体の蝶などは、初めて見ることができた。
その帰り、赤門前の扇屋で「ゆず餅ち」を買い、地下鉄に乗るため、本郷三丁目の交差点を渡ろうとしたところで、驚いた。洋品店の「かねやす」の様子がおかしい。近づいてみると、何とどら焼きの店になっている。看板には大きく「丹波やながわ」とあり、「どら福」という名のどら焼きを売っている。
洋品店の「かねやす」は、かなり前から店を閉めていたから、そこがどら焼きの店になっていても一向不思議はないのだが、驚いたのには理由がある。「かねやす」は、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」という川柳で知られた店だったからである。
右の川柳とその由来を示す説明板(文京区教育委員会)は、いまも建物の横に貼り付けられているが、それによると、「享保15年大火があり、防火上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺きが続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵がある「かねやす」は目だっていた」とあり、そこで、川柳にも「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と詠まれるようになったのだという。
「かねやす」から先、本郷三丁目の交差点から北側は、江戸の外と認識されていたことになる。
そこで思い当たったのは、『林家正蔵随談』(麻生芳伸編、青蛙房)の一節である。「入門したころの楽屋」という題で、正蔵(八代目)がまだ前座見習いの頃の楽屋の様子が記されている。当時の楽屋には、江戸の引き残りの年寄りが大勢おり、小言幸兵衛よろしく、口やかましく若い者にあれこれ言っていたらしい。大正二年頃のことだとある。
正蔵は、「生まれはどこか」と聞かれて、「品川です」と正直に答えたら、「江戸じゃあねえの、東海道か?!」と侮蔑(ぶべつ)され、口惜(くや)しいので、「でも、三つのときから浅草で育ちました」と言い返したら、さらにふふんと鼻を鳴らされ、「朱引外(しびきそと)か!」と馬鹿にされたとある。
この「朱引外」だが、「朱引外っていうのは、古い江戸の地図には日本橋、神田に朱線がひいてあって、その外ということなんですね」と、正蔵自身が補足している。
日本橋、神田が朱引(朱線)の境(さかい)であるなら、なるほど浅草は外になる。ならば、本郷三丁目の「かねやす」も、朱引(朱線)の境であったことになる。
その朱引(朱線)の内側が江戸の範囲ということになるのだが、ところが、この朱引(朱線)について調べてみると、江戸の範囲の認定がなかなか厄介であることに気づいた。手許にある『古事類苑』『国史大辞典』などを参考にすると、江戸の範囲には、町奉行支配の範囲(町奉行支配場境筋)、江戸払いの刑が規定する所払いの範囲、旗本・御家人が江戸外に他出する際の届出を要する範囲などがあり、それらにはかなりの広狭の差があったという。そこで、文政元年(1818)、その範囲についての伺いがあったことを契機に、評定所において評議した結果、老中阿部正精(あべ・まさきよ)によって、江戸の範囲が定められることになった。それによれば、寺社が江戸府内において勧化(かんげ)を行う範囲(勧化場境筋)をもとに、大略、東は砂村、亀戸、木下川、須田村、西は代々木村、角筈村、戸塚村、上落合村、南は上大崎村より南品川宿迄、北は千住、尾久村、瀧野川村、板橋の範囲を定め、これより内を御府内とした。同時に絵図にその範囲を朱引(朱線)で示した。それが朱引内になる。
その絵図だが、現在、東京都公文書館に所蔵される「旧江戸朱引内図」がそれにあたる。東京都公文書館のデジタル・アーカイブで閲覧が可能なので、ながめてみた。上に示した範囲でも明らかなように、本郷三丁目のかねやすも浅草も、朱引内のずいぶん内側になる。
この「旧江戸朱引内図」には、朱引のさらに内側に、墨引(黒線)も引かれており、これは町奉行支配の範囲(町奉行支配場境筋)を示すという。その範囲は、ずいぶんと狭まってはいるが、それでも、かねやすも浅草もやはりその内側に入っている。
ならば、『林家正蔵随談』の楽屋の年寄りの言葉、――品川を東海道とするのはともかくも、浅草を朱引外と断じているのは、どう解すべきなのか。正蔵自身も、日本橋、神田に朱線のある古地図を見ているらしいから、江戸の範囲をさらに狭く限定する見方がずっとあったらしいことが、そこからうかがえる。楽屋の年寄りは、幕末からの生き残り(正蔵は「引き残り」と言っている)なのだろうが、生粋の江戸っ子は、幕府の決定とは無関係に、ここまでが自分たちの江戸の範囲だとする矜持を持ち続けていたのかもしれない。先のかねやすの説明板に、享保15年(1730)の大火に際して、塗屋・土蔵造りを奨励し、茅葺きを禁じて瓦葺きにさせたとする範囲が、江戸城からかねやすあたりまでだったとあるが、あるいはその範囲が、古い江戸っ子の意識の中では、ずっと後(のち)までも、本来の江戸であったのかもしれない。正蔵自身も見たらしい、朱線を引いた古地図がいまもあるのかどうか、これは調べたけれどわからなかった。それにしても、浅草が江戸の範囲ではないと意識されていたというのは、実に興味深い。
これは、雑感とは言いがたい内容なので、とりあえずは研究に入れておく。