先日(3月7日)、バッハ・コレギウム・ジャパン(以下、BCJと略す)の定期公演で、バッハのコラールカンタータを四曲聴いた。これを聴いて、これまでの私の音楽鑑賞の道筋がいかに偏頗(へんぱ)なものであったのかが、つよく意識された。
このブログでも再々記したように、中学時分からクラシック音楽を聴き続け、かなりの期間、東京交響楽団やNHK交響楽団の定期会員だったりしたこともある。活動休止になるまでは、都民劇場音楽サークルの会員でもあった。海外オーケストラの来日公演も、可能な限り聴きに行ったりしていたから、人並み以上にさまざまな演奏を聴き続けて来たように思う。
そのうち、オペラに関心がつよく向くようになり、海外のオペラハウスの来日公演にも足繁く通った。ドイツに一年近く滞在していた時など、あちこちのオペラハウスに50回ほどは通った。その後もヨーロッパに行くたびにオペラを見ているから、オペラにはずいぶんと詳しくなったはずである。
ところがである。これまで、宗教音楽の世界にまったく関心を寄せていなかったことに、あらためて気づかされた。一昨年の12月、軽井沢の大賀ホールで、BCJの「メサイア」の演奏を聴いたが、以前のブログにも記したように、これがこの曲を実際に聴いた、初めての体験だった。
それを機に、BCJの演奏を聴くようになったのだが、バッハのコラールカンタータも、今回初めて聴いた。
バッハのコラールカンタータの歌詞はドイツ語だから、ドイツ滞在経験はあっても、ドイツ語がまったく話せない私にはそのままではわからない。日本語訳、英訳もあるにはあるが、200曲ほどはあるという、カンタータのすべての歌詞を簡単に見るのは難しい。それで、今回の四曲については、BCJ音楽監督であり、今回の演奏の指揮者でもある鈴木雅明氏がプログラムに掲載した日本語訳を参照しながら聴かせてもらった。そこでわかったのは、その歌詞が、聖書のあちこちから切り出した詞章のつなぎ合わせであることで、これでは、よほど聖書に親しんでいるのではないかぎり、その内容を十全に理解することなどとてもできそうにない。
その日本語訳を見て、まず驚いたのは、BWV126の冒頭の合唱の歌詞に、
我らを保たせたまえ、主よ、あなたの御言葉のもとに
そして、ローマ教皇とトルコ人との殺戮から守りたまえ。
とあったことで、ここにどうしてローマ教皇とトルコ人とが殺戮者として現れるのか、それがいかにも唐突に思われた。なるほど、トルコ人が、イスラム教の世界帝国、オスマン帝国の支配者を意味するのなら、キリスト教の東方世界は、その支配下に長らく置かれることになった歴史的な事実があるから、トルコ人の名が殺戮者として出て来るのは、必ずしも不思議ではない。だが、なぜローマ教皇も殺戮者として現れるのか。おそらくこれは、ルターの宗教改革によって生じた意識の現れなのだろう。それにしても、ローマ教皇がそこまで否定的に捉えられているとは思いもしなかった。なお、先のプログラム掲載の日本語訳には、この合唱の歌詞がルター作であるとする注が付されていることに、家に帰ってから気づいた。もっとも、ルター以前ではあろうが、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』に描かれた世界とか、異端審問の場面とかが、頭にちらついたりはしたが。
来月もまた、やはりBCJの定期公演で、バッハの最高傑作とされる「マタイ受難曲」を聴くことになっているのだが、この曲もまだ実際の演奏を聴いたことがない。それで、先日、予習のつもりで礒山雅( いそやま ただし)氏の『マタイ受難曲』(ちくま学芸文庫)を購入して、にわか勉強を始めたのだが、この本の行き届いた論述には、心底恐れ入った。名著である。とはいえ、礒山氏のような学識がないと、この曲の本質に迫れないのだとすると、それは私などには到底無理である。
以前、このブログ「『聖書』を知ろう」で、オペラを見る際には、聖書の知識がなければだめだと書いたことがあるが、オペラだけでなく、おそらくヨーロッパ文化のすべてにわたって、その知識が必要なのだということが、ここに来てますますつよく実感されるようになった。だが、それにしても、東アジアの一異教徒にとって、キリスト教の世界を知ることは、とてつもなく難しいことであるには違いない。いまはそのことを思っている。