いま、日本文学協会(日文協)という学会の委員長を勤めている。三年勤めるのが習わしなのだが、健康問題もあり、二年勤めたところで、退任しようと思っている。本年(2024年)11月末で年度替わりになるから、あと二月弱の任期ということになる。
当初、委員長を引き受けた際には、日文協が直面している問題について、何かしらの議論が出来るのではないかと、多少の期待をもっていた。私のような老いぼれが委員長を引き受けた理由は、そこにあったともいえる。
だが、私の力不足もあり、そうした議論は出来ないまま終わりそうである。
そこで、以前もそうであったように、これからはブログを通じて、私の意見を発信していきたいと思っている。その問題の一つが、標題とした「国語教育の行方」である。
2018年3月公示の「高等学校指導要領」の大改定によって、高等学校の「国語」の科目の再編成が行われた。
私自身は、この「指導要領」の改定について、大いに疑義をもつ立場ではあるのだが、この改定の背景に、それをもたらすような状況があったことだけは、承知しておかなければならないと思っている。この改定には、それまでとは大きく変容した、現在の社会的・文化的な状況の中で、「国語」という教科が、いかなる意味をもちうるのかへの問い掛けが含まれているからである。名称の愚劣さは措くとしても、「国語」に「論理国語」と「文学国語」との区別を設けたことの背後に、右に述べた社会的・文化的な状況の大きな変化があったことだけは、率直に認めておかなければならない。
その変化の一例として、いまや世界の共通語となった英語の比重が増大していることが挙げられる。英語さえできればよいという風潮すら生まれようとしている。この傾向は、今後、ますます強まると見てよい。
右のことは、すでに、このブログ「古典の危機」にも記した。以下述べることは、それとの重複もあるのだが、それは御容赦を願いたい。
英語の週刊学習新聞“the japantimes alpha”を購読していることは、しばしばこのブログにも記している。
その“alpha”の最終面には、毎号、英語を学び、その語学力を生かして、国際的に活躍している人々の紹介記事が載っている。国際機関で働いていたり、海外とかかわる仕事に従事したりしている人々の記事である。
彼らが英語と出会う契機はさまざまだが、多くは海外での充実した体験を経ている。大きな苦労はあっても、それを乗り越えてそこでの生活に馴染(なじ)み、それが現在の自分の仕事にどう結びついているのかが語られている。英語を学んだことで、自分の人生がどれほど豊かになったのかを述べることが主眼だから、これは“alpha”の刊行目的とも合致する。
その“alpha”の先週号に、日本での起業を希望する海外の人々、海外での起業を希望とする日本の人々とを結ぶ架け橋となるような会社を設立した、若い男性の記事が載っていた。その男性の発言がなかなか興味深い。
“In Japan, English proficiency is relatively low compared to other developed countries……”
“simply being able to speak English can make you a valuable asset in Japan, both in your career and personal life ”
日本人の英語力が、他の先進国の人々に較べて劣ること、また英語で話せるようになることが、その後の人生において、仕事の面でもプライベートの面でも大いに役立つことが述べられている。
なるほどそのとおりなのだろう。世界の共通語となった英語の習得は、いまや必須ともいえる時代になったからである。学校教育でも、英語はますます重視されるようになった。だから、こうした発言が現れても、何の不思議もない。
ただ、そこで危惧するのは、一方で、国語の軽視、とりわけ古典へのそれを助長するような状況が生み出されていることである。古典の場合、軽視どころか、古典無用論まで現れている。以上は、先のブログに記したことの繰り返しになるが、そこにはあきらかに国語教育の危機がある。
これに関連して、次のような状況があることも考えなければならない。「朝日新聞」の本年(2024年)1月22日付の記事によれば、日本語を母語としない、移民的背景をもつ学齢期前の子どもの数が、2030年には10人に1人になるという。
この割合は、今後ますます増えていくだろうから、学校教育における「国語」にも、大きな影響をもたらすはずである。「国語」という概念そのものが、いまや揺らぎかねないところにまで来ている。このことは、先の「高等学校指導要領」における「論理国語」の新設とも、どこかで通底しているに違いない。
こうした中、近年、日本語教育の比重が増しつつあることも、注意される。日本語教育の研究者、教育者を中心とする学会「日本語教育学会」は、公益社団法人の法人格をもっている。法人格をもつ学会など、日本文学(国文学)関係では、耳にしたことがない。しかも、日本語教育は、国家の要請とも合致するから、科研費等の配分などにおいても、有利な立場にあることは容易に想像がつく。
問題は、この日本語教育と、国語教育との間に、ほとんど接点が見いだせないことである。日本文学(国文学)との接点など、まず皆無であろう。日本語教育と国語教育とは、目的や対象を異にはしているが、上にも記したように、状況は変わりつつある。ならば、国語教育の側も、どこかで日本語教育との接点を探る必要があるのではないか。
「国語教育の行方」について、さらに付言すれば、いまの若い世代は、表現の方法が、実に多様化している。これは創造する側の問題にもなるが、いまや文字で書き記すことだけが、自己表現の手段ではなくなっている。それは、文学の衰退とも裏腹である。
反対に、アニメなどの新たな表現の隆盛は著しい。もっとも、このアニメは、私たちの世代の漫画とはまったく異なる。かつての漫画は、文学の世界と深くつながる感性ないし教養を基盤にしていた。これについても、以前のブログ「つげ義春」に記したので、参照していただきたい。アニメは、文学とはまったく別の表現である。
ならば、表現の方法が多様化したこのような状況に対して、国語教育、とりわけ文学教育はどのように関わることができるのか。たとえば、「こころ」や「羅生門」を教えることが、どのような意味をもつのか。このことが大きく問われているはずである。
数日前、木下資一氏から、『なぜ少年は聖剣を手にし、死神は歌い踊るのか』(神戸神話・神話学研究会編、文学通信)と題する本を頂戴した。副題に「ポップカルチャーと神話を読み解く17の方法」とある。帯にも「漫画、ゲーム、アニメ、映画を学問する!」とある。
副題に示されているように、いくつかのポップカルチャー作品のモチーフやテーマを取り上げ、神話的な世界とのつながりを、神話学、宗教学、民俗学、伝承文学、比較文学などの知見を導入しつつ分析することが、この本の目的であるらしい。
多様化した表現世界のありようをどのように捉えたらよいのか、この本は、そうした新たな研究の方向を示唆するものと捉えることができる。それゆえ、ここでの研究は、これまでの文学研究――言語表現を直接の分析対象とするその研究とは、あきらかに区別されるものでもある。
ならば、国語教育、文学教育は、こうしたポップカルチャーの表現と、どう向き合っていくのか。
昨年(2023年)12月に開催された日文協の大会では、「現代のなかの古典文学研究」というテーマで、シンポジウムが行われた。その登壇者の一人である、大木志門氏の報告「文豪に育成される読者」は、副題を「「文豪とアルケミスト」から考える文学知の社会との環流」とする。ポップカルチャーのコンテンツ「文豪とアルケミスト」が、近代文学の新たな読者を広げ、その影響が文学研究にまで及んでいる実態を明らかにした報告である。類似のコンテンツ「文豪ストレイドッグス」についても、そうした事情を想定することができるから、先の『なぜ少年は聖剣を手にし、死神は歌い踊るのか』と並べると、こうした流れが、いまの文学研究にも大きく浸透しつつある現実が、何となく見えて来る。
もっとも、私は旧弊な人間であり、言語表現(この場合は日本語の言語表現だが)に徹底して拘泥する立場、言い換えるなら、文学の価値をつよく信奉する立場だから、私の場合、おそらく、いまの新たな状況とは、どこかで一線が引かれているように思う。とはいえ、私のような立場は、いまや少数派になりつつあるのだろう。もっとも、私の立場とても、時代性を免れないものではあるのだが。
「国語教育の行方」について、さらに先のことを申しておけば、人工知能=AIの恐るべき進化、とりわけ生成AIの進化が何をもたらすかについても、考えるべき時が来ているように思う。これは、予想外に深刻な状況を生み出すのかもしれない。
以上述べたことは、実のところ、何の提言にもなっていない。国語教育の危機を述べ立てたに過ぎない。だからこそ、日文協では、この問題を多くの方々と議論したかったのである。国語教育の場から古典は消えていく運命にあるのであろうか。