しばらく前のブログ「われ讃(ぼ)め」で、オンラインによる画像配信の講座を担当したことについて記した。JPカルチャー・オンライン講座である。
この時は『万葉集』を取り上げたのだが、今度は新たに『古事記』を担当することになり、10月からその録画が始まる。全15回の予定である。
目下、その資料の作成中なのだが、私の『古事記』の注釈書である『古事記私解Ⅰ』の誤りをそこで見つけた。前にも、このブログに訂正を載せたことがあるので、これは(続)ということになる。
高天原(たかあまのはら)で、乱暴狼藉をはたらいたスサノヲは、地上世界に追放される。その降り立った地が、出雲国の肥河(ひのかわ)の上流の鳥髪(とりかみ)というところである。箸(はし)が川を流れて来るのを見つけて、スサノヲは川上に人がいるはずだと思い、尋ね求めて行くと、老夫と老女に出会う。ここから、スサノヲのヤマタノヲロチの退治譚になる。ヤマタノヲロチを退治したスサノヲは、老夫と老女の娘クシナダヒメと結婚して、須賀の地に宮を造営する。「須賀宮」である。
よく知られた話で、いまも「須賀宮」の跡を称する神社がある。島根県大原郡(現在雲南市)大東町須賀の地に立つ須我神社である。そこで、須我神社は、「日本初之宮」と称している。
その須我神社では、肥河を流れて来た箸を模した箸を「須我神社願い箸」の名で頒布している。通常の二本箸ではなく、ピンセット状に竹を折り曲げた箸である。なるほど、古代の神事にはこうした箸が用いられた記録もあるから、肯(うなず)けなくもないが、これには疑問もあるらしい。もっとも肥河を流れて来た箸が二本箸なら、揃って流れて来るはずはないから、その片方ということになる。それをどうして箸と見分けたのか、そこにも不審が残るから、その場合は、ピンセット状の箸とする方がよいのかもしれない。
さてそこで、『古事記私解Ⅰ』の誤りについて記す。
まず「須我神社」の名を、「須賀神社」と誤っている(105、119頁)。これは「須賀宮」に引きずられたためだろうが、なぜ神社が「須我」の表記を用いているのかがわからない。スサノヲを祀る同系統の神社は、すべて「須賀神社」である。ここの地名も、須賀である。だから、余計わからない。
もう一つは、神社の所在地の誤りである。105頁で「出雲市下古志町」とした。先にも記したように「島根県大原郡(現在雲南市)大東町須賀」が正しい。この誤りは、先の神社頒布の「願い箸」に添えられた由来書に、その住所が記してあり、それをそのまま写したためなのだが、由来書をよく見ると、そこには「願い箸社」とあり、どうやらこれは「願い箸」の製作会社であるらしい。それゆえ、その住所と誤ったことになる。実に不注意である。
以上が、新たに気づいた誤りである。この『古事記』の講座の配信は、来年4月以降になるらしい。そこでは、「願い箸」の実物など、お目に掛けようと思っている。