雑感

ねぎまの殿様

投稿日:2024年12月6日 更新日:

本郷の洋品店かねやすのことを書いていたら、突然、五代目古今亭今輔の演じる「ねぎまの殿様」のことが思い浮かんだ。

今輔は、新作のお婆さん物で一世を風靡した噺家だったが、修業時代には、若き日の林家正蔵(八代目、彦六の正蔵)とともに、三遊一朝(三遊亭ではない!)のもとで修業した経験があり、圓朝に繋がる芸の系譜を直接に受け継いでいるから、その根っこにはなかなかしっかりとしたものがあった。晩年の一朝――正蔵は一朝老人と敬愛をこめて呼んでいたが、その一朝を、正蔵と半年交代で世話をするなどの律儀さももちあわせていた。お婆さん物だけでなく、「死神」「もう半分」などの古典的な話(「死神」は、圓朝の作だから、古典とは言いがたいところもあるが)も、いまなお忘れ難い。

そこで、「ねぎまの殿様」である。この「ねぎま」だが、ねぎま鍋のことである。焼き鳥のねぎまではない。鮪(まぐろ)のぶつ切りを葱(ねぎ)と煮た鍋なのだが、今輔の説明だと、鮪も骨付きのところ、血合いのところ、それらをぽんぽんと鍋に放り込み、葱の青いところも構わず入れて、ガーッと炙(あぶ)ったものだという。実においしそうである。ただ、残念ながら、ねぎま鍋は、まだ食べたことがない。

この話の主人公は、本郷辺のさるお大名とされる。話の具合からすると、どう見ても加賀の前田家の殿様としか思えない。まだ若くて血気盛んなその殿様が、三方を硝子(がらす)障子(話の中では、硝子(がらす)をギヤマンと言っているが)にした部屋から、外の雪景色を眺めているうちに、向島(むこうじま)に雪見に行くことを思い立ち、三太夫という老骨の家臣一人を供に、馬で出掛けることになる。三太夫は、若殿様のお守り役といったところかもしれない。寄る年波ゆえ、三太夫は神経痛やリウマチに悩んでおり、筑波おろしの寒風が吹きすさぶ中、本郷から向島に馬で行くなど、迷惑きわまりないことなのだが、主命ゆえ、やむをえず供をすることになる。

本郷三丁目のあたりから、湯島の切り通しを下(くだ)り、池之端仲町(いけのはたなかちょう)に出るのだが、先のブログにかねやすのことを書いていて思い浮かんだのは、その道筋である。
おそらくは、かねやすの前あたりを左に折れ、そこから湯島の切り通しに向かったのだろう。当時の切り通しは、いまとは違って、道も狭く、つづら折りの急坂だったらしい。

今輔は、池之端仲町のところで、当時そこにあった生薬屋(きぐすりや)錦袋圓(きんたいえん)について触れている。そこから、責め絵の画家、伊藤晴雨から聴いたという「下谷七不思議」についても、詳しく紹介しているのだが、これについては、これも以前のブログ「お団子ツアー」に記したので、ご関心のある向きは、参照していただきたい。池之端のあたりには、気付け薬の「宝丹(ほうたん)」を売る店もあった。赤い色(茶褐色)の粉薬である。この「宝丹」も落語に縁があり、艶笑話の「なめる」のサゲに出て来る。いまも、同じ場所に「宝丹薬局」があり、一度だけだが、買ってみたことがある。龍角散のような、小さなアルミ缶の中に入っていた。

殿様は池之端から、上野の広小路に出るのだが、そこには煮売屋(もともとは惣菜などを煮売りする店のことだが、小料理屋のように酒を飲ませたりもした)がぎっしりと軒を並べている。そこから漂うおいしそうな香りに我慢ができず、馬を繋いで、その中の一軒の店に飛び込み、そこでねぎま鍋と、初めて出会う。「珍味な香り」という言葉が、しきりと出て来る。鍋の葱を噛んだら、その芯が喉の奥に飛び込み、「この葱は、鉄砲(てっぽう)仕掛(じか)けになっておる」などと洒落たりしている。

殿様は、初めての体験に満足して屋敷に戻るのだが、この話は、以下、「目黒のさんま」と、ほぼ同工になる。それゆえ、話の紹介はここで止めることにする。

この話から、広小路の意味についても教わったので、そのことだけ最後に書いておく。上野(下谷)、両国の広小路だが、もともとは幕府の火除地(ひよけち)としてあったが、仮設であることを条件に、そこに芝居小屋や煮売屋などの店が建ち並ぶことが許されたのだという。上野の場合、将軍家のお成りなどという際には、一夜のうちに立ち退いて、もとの広小路に戻したのだという。

昨夜、「ねぎまの殿様」の録音テープを取り出して、久しぶりに聴いてみた。今輔のような、独自な味わいのある噺家も、もう現れることはないだろう。よい時代に、よい噺家たちの話が聞けたのは、有り難いことだと思う。

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