雑感

漱石と東大図書館

投稿日:2023年5月25日 更新日:

上代文学会の大会に、三年ぶりに出席した。それまでは、ずっとZOOM視聴だった。むろん、コロナ禍のためである。

会場は鶴見大学である。そこで、クリアホルダーに入った、発表資料を受け取った(クリアホルダーは、クリアファイルともいうが、どうやら和製英語らしい。もっとも、受け取ったクリアホルダーは、以下に記すように、表裏に印刷があるから、clear(透明)ではない)。
そのクリアホルダーに、いたく興味を惹かれた。その表面には、夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』の初版本と「漱石山房」の印章の写真、さらに表面から裏面にかけて、鶴見大学図書館所蔵の漱石の書簡の写真が印刷されていた。鶴見大学の宣伝の意味もあるのだろう。

その書簡が実におもしろい。東京帝国大学文科大学学長坪井九馬三に宛てた、明治37年(1904)6月4日付の書簡である。
漱石全集にも収められており、漱石研究者にはよく知られた書簡なのかもしれないが、私はまったく知らなかった。それで、こんな出来事があったのかと、驚いたような次第である。

以下のような内容である。

大学図書館の閲覧室で、漱石が読書していると、隣室で、事務員らが高声で談笑するので、漱石自身、館員に面会の上、注意するよう申し入れたが、一向取り合う様子が見られないので、貴下(文科大学学長坪井九馬三)から、図書館長に静粛を保つよう交渉してほしい。云々。

なお、坪井九馬三は、歴史学者(西洋史)で、文科大学学長は、後の時代の文学部長に相当する。事務員、館員と、用語の使い分けがなされており、どうやら職階上の区別もありそうである。

この顚末がどうなったのかは、残念ながら、わからない。ひょっとすると、日記に何か書いてあるのかもしれないが、いま手許に全集がないので、確かめられない。
こんな申し入れを、文科大学学長にするくらいだから、漱石もよほど腹に据えかねたのだろう。もっとも、学長の坪井も、図書館長にわざわざ交渉したのかどうか、それもわからない。漱石も、この頃はただの一講師に過ぎないから、そうした申し入れも、まともに受け取ってもらえたのかどうか。とはいえ、当時の大学の実態を伝える貴重な資料であることは、間違いない。

漱石と大学図書館から、すぐに思い起こすのは、『三四郎』である。最初のあたりに、三四郎が図書館に頻繁に通う場面が出て来る。そこに、

三四郎は一年生だから書庫へ這入る権利がない。仕方なしに、大きな箱入りの札目録(ふだもくろく)を、こゞんで一枚々々調べて行くと、いくら捲(めく)つても後(あと)から新しい本の名が出て来る。

とある。しかし、「どんな本を借りても、屹度(きつと)誰か一度は眼を通して居ると云ふ事実を発見」し、それで、アフラ・ベーンという、まったく未知の作家の小説を借りたところ、そこにも誰かが読んだしるしが鉛筆で付けられていたので、三四郎は呆れ果ててしまう。
ずいぶん経ってから、廣田先生にその話をしたら、「アフラ、ベーンなら僕も読んだ」と聞かされて、さらに驚いた、という話が、後に続く。
アフラ・ベーンは、イギリスの閨秀作家(どこからか抗議が来そうな用語かもしれない)だが、どんな作があるのか、私も知らない。

「書庫に這入る権利云々」とあるところだが、私の学生時代は、学部生は許可が必要だが、大学院生は自由に入れたように思う。ただし、あやふやな記憶に過ぎない。
書庫に入って、ずらりと並ぶ本の背中を見て回る愉悦は、何にも代えがたい。大袈裟でなく、世界が広がったような感じがする。以前は、書庫の中に簡易な机と椅子もあり、そこで短時間の読書も出来た。

いまや、どこの大学の図書館も膨大な蔵書の量に堪えきれず、完全閉架の自動式書庫の導入が進められている。これがどんな弊害をもたらす愚劣な措置であるかについては、以前のブログ「デジタル化と索引、図書館」で述べたことがある。

漱石や三四郎が通った大学図書館は、多くの貴重な蔵書とともに、関東大震災で湮滅(いんめつ)に帰した。現在の図書館は、ロックフェラー財団などの支援による、再建である。
その図書館のファサード(正面玄関側の立面)のデザインは、本を立てて並べた姿になっている。気づく人もほとんどいないようなので、ここに記しておく。

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