最近、LPレコードが復活していると聞いた。アナログの音にこそ良さがあるというのだが、再生装置がよほど高価なものでないと、CDより音質がよいとはいえないように思うのだが、どうだろう。
一方、まったく姿を消してしまったのが、LD(Laser Disc)である。LDの画像の解像度はそれほどよくはないから、DVDに取って代わられてしまったのは、やむを得ないことといえる。LDの大きさは、LPレコードと同じだから、場所塞ぎでもある。
オペラに夢中になっていた頃、そのLDをずいぶんと集めた。それがそのまま置いてある。再生装置もあるのだが、それをテレビに接続するのもなかなか面倒である。装置そのものも大きくて重い。
DVD化されたものを、買い直したりもしているから、LDはずっと抛(ほう)り出したままになっている。
「魔弾の射手」――カルロス・クライバー指揮のそのCDを聞いているうちに、突然、LDの「魔弾の射手」が見たくなった。それで、テレビに再生装置を繋ぎ、十数年ぶりに、それをながめた。標題にした、ゼンパー・オパー(Semperoperドレスデン国立(州立)歌劇場)の「魔弾の射手」である。
久しぶりに見て、あらためて大変な名演だと思った。何より熱気がこもっている。つよい緊張感が全体に漲(みなぎ)っている。演奏もドイツ的な剛毅さに満ちている。
それもそのはず、このLDは、長い年月をかけて修復したゼンパー・オパーの、復興記念公演のライブ映像だからである。1985年2月の録画とある。
ゼンパー・オパーのあるドレスデンの旧市街は、第二次大戦で連合国軍によって、徹底的に破壊された。ゼンパー・オパーも、その被害を大きく蒙った。建物の一部を残して、多くが瓦礫と化した。
戦後、四十年にも及ぶ時間を費やして、以前と寸分変わらない劇場を再興したのだから、言葉は悪いが、その執念には驚かされる。
このLDでは、冒頭の序曲の演奏にあわせて、廃墟と化した劇場の部分部分の写真を示し、そこに修復されたいまの様子を重ねて見せてくれている。
以前、このブログ「ゴルバチョフの死」に、1999年11月に、ドレスデンを訪れた際のことを記した。そこに、やはり戦禍によって廃墟となったフラウエン教会の修復中の様子を、当時の手紙を引用しつつ、次のように記した。
フラウエン教会は、いまも復元の途中。あらゆる破片を、使えるかぎりもとの位置に戻すという、考古学の作業のようなことをやりつつ、工事を進めています。破片には、いちいち番号が付けられ、棚に並べられています。
おそらく、ゼンパー・オパーの場合も、フラウエン教会と同様な方法で、復興の作業が進められたのだろう。旧市街全体も、昔のままに復元されているらしいから、日本の戦後復興のありようとは、ずいぶんと違っているように思う。
2005年に、ドレスデンを再訪したが、その時には、フラウエン教会はすっかり修復されていた。
「魔弾の射手」を見て、一つ考えさせられた。狩人(狩猟民)と農民の関係である。狩人の方が、農民たちより上位にいるように描かれている。この地域(ボヘミアの森らしい)を支配する侯爵がおり、その下に、森を統轄する森林官がいる。狩人(狩猟民)は、その支配下にいるとされる。その狩人は、農民たちより一段上の階層に位置づけられている。それは、なぜなのか。
ヨーロッパのこの地域が、もともと狩猟民と農民とが併存する社会であったためかもしれない。日本の場合は、農民を主体とする定住社会が作られると、狩猟民(漁民も)は、その外縁に位置づけられた。だが、「魔弾の射手」に描かれているのは、そうしたありようとは、ずいぶんと異なっている。森が大きな意味をもっていたためかもしれない。もっとも、ヨーロッパの歴史については疎(うと)いので、右は単なる推測に過ぎない。
なお、このLDは、DVD化はされなかったようである。ずいぶん勿体ないことだと思う。指揮は、ヴォルフ=ディーター・ハウシルト。この人は、何度か来日して、N響などを指揮している。つい最近、亡くなったらしい。マックスは、ライナー・ゴールドベルク。老練のテオ・アダムが、隠者役をつとめている。繰り返すが、圧倒されるような名演である。