小学唱歌「あおげば尊し」の「一」の歌詞の最終行、「今こそ わかれめ、いざさらば」の「今こそ わかれめ」を問題にしてみたい。『日本唱歌集』(岩波文庫)によれば、明治17年3月の『小学唱歌集(三)』に載せられたのが最初らしい。作詞者は明示されていないが、Wikipediaには「大槻文彦・里見義・加部厳夫の合議によって作られたと言われている」とある。
「今こそ わかれめ」は、誤解の例としてよく取り上げられる。「わかれめ」を「分かれ目」とずっと信じていたが、それが誤りであることを知って驚いた、との述懐に接することもある。ここで述べたいのは、これを本当に誤りと見てよいのか、という疑問である。
正しいとされる理解は、係助詞「こそ」があるから、「わかれめ」の「め」は、「(縁の切れ目などの)目」ではなく、助動詞「む」の已然形だとする。なるほど、文法的にはそのとおりだろう。それ自体はきちんとした文法的説明になるから、誰もがそれに納得するのだろう。現代語訳すれば、「今こそ、分かれましょう」ということになる。
だが、私はその説明にずっと釈然としない思いを抱いている。なぜ「分かれ目」という誤解が生じるのか。それは、歌詞そのものが不自然だからではないか。文法的には正しくても、どこかおかしな言い方なのではないか。そんなふうに思っている。
「こそ」は、下接する句に対して、基本的に条件句(已然形との呼応だから、逆接のニュアンスもうかがえる)を構成する。そこまで明確ではないにしても、心理的にはどこかで条件句であることを意識させる。
いま問題とする「こそ…め」の場合、次のような例がすぐに思い浮かぶ。大伴家持(おおともの・やかもち)の「陸奥国(みちのくのくに)の出金詔書(しゅっきんしょうしょ)を賀(ほ)ける歌」(『万葉集』巻十八・四〇九四)である。大仏建立に際して、鍍金(ときん)用の黄金が不足している折、陸奥国小田郡から黄金の産出が伝えられ、それをこの上ない慶事と歓喜した聖武天皇が下した詔(みことのり)が「出金詔書」である。その中に、大伴氏の言立(ことだ)てを引用して、その功績を褒(ほ)め称(たた)えた箇所があり、それに感激した家持がその思いを歌ったのが、この「出金詔書を賀ける歌」である。大伴氏の言立ては、その歌の中にも引用されている。
海行(ゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね) 大君の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かへり)みは せじと言立(ことだ)て……
今次の大戦中、準国歌として扱われた「海行かば」は、信時潔(のぶとき・きよし)が、これに曲をつけたものになる。
この大伴氏の言立ての「大君の 辺(へ)にこそ死なめ」が、やはり「こそ…め」の構文を用いている。「大君の側(かたわら)でこそ死のう」というのがその意味になるが、必ずしも絶対的な決意の表明とはいえない。「こそ…め」が条件句となり、「顧みはせじ」に下接するからである。そこで、「大君の側でこそ死のうが、後を顧みることはすまい」というのが適切な理解になる。
「今こそ わかれめ」を、この例と比べてみよう。「今こそ わかれめ」には、そもそも下接する内容がない。本来なら、「後(のち)にはまた会おう」というような内容が続くのでなければならない。「今こそ わかれめ」には、「今こそは分かれようが」の意味あいが、どうしても感じられるからである。なお、「いざさらば」は、「今こそ わかれめ」には、直接には接続しない。明確に切れている。
それゆえ、「今こそ わかれめ」は、いかにも中途半端な表現だといえる。そこで、「今こそ 分かれ目」 のような誤解が生ずることになる。この誤解は、理解としてはきわめて自然である。文法的にはいくら正しくとも、「今こそ わかれめ、いざさらば」というのは、碌でもない歌詞だというのが、私の感想である。
付言:この箇所は、音楽的にも問題がある。「今こそ わかれめ」では、「め」というエ行で終わるから、力が抜ける。文法的には破格でも「今こそ わかれむ」なら、意味的にも誤解は生じないし、音楽的にもずっといい。