雑感

本郷界隈 消えた店、思い出の店

投稿日:2022年2月17日 更新日:

東京大学出版会のPR誌『UP』連載の山口晁氏の画文「すヾしろ日記」を、毎月楽しみにながめているのだが、二月号では店じまいした飲食店のことが話題にされていた。それを見て驚いた。谷中魚善の名が出て来たからである。ただし、そこに紹介されている内容は、私の知っている魚善とは、趣をやや異にしている。だが、添えられた地図を見ると、たしかに同じ店である。
もともと魚善は、由緒ある割烹料理屋だった。狭い玄関脇の階段を上がった二階に、畳敷きの部屋がいくつかあり、そこで食事をした。コース料理が中心だったが、味はなかなかのもので、器も洗練されていた。値も実に良心的だった。老媼(ろうおう)と呼ぶにふさわしい着物姿の女将がいつも挨拶に出て来てくれた。
「すヾしろ日記」の記事が気になったので、調べてみると、近年、一階の調理場を改装し、割烹風の居酒屋にしていたらしい。「気の良い御主人と、…どこか剽げたおカミさん」とあるのだが、その御主人には出会った覚えはない。その割烹風の居酒屋が、どうやら店じまいをしたらしい。
魚善は、研究室でも、何度となく利用した店だったのだが、改装したことも、店じまいしたことも知らなかった。それで、あらためて本郷界隈と、いかに縁遠くなったのかを実感したような次第である。

それで、思いつくままに、消えた店、思い出の店を並べてみようと思い立った。

①明月堂
本郷三丁目の交差点の近くにあった小さなパン屋である。ここの甘食は絶品だった。私の中の甘食の概念をひっくり返すような美味しさだった。なぜ、他の店でこういう甘食が作れないのか。どこかに秘密があるのだろうが、わからない。紙袋に入れてくれるのだが、住所や店名が篆書体の文字で記されていて、まことに格調の高いものだった。
いつ店じまいしたのか、気づいたらまったく別の業態の店になっていた。

②藤むら
ここは、「藤むらの羊羹」で知られる名店だった。漱石の『吾輩は猫である』にも、その名が出て来る。春日通りの拡張工事が始まるあたりで、突然、店を閉めてしまった。お家騒動があったとかなかったとか、噂には聞くが、真相はわからない。店を閉めた後も、馴染みの客には、しばらくは裏口で羊羹を提供していたらしい。
もっとも、私が愛好したのは、羊羹ではなく、黄身時雨(きみしぐれ)である。ちょっとした和菓子屋だと、どこにでも並んでいる品だが、藤むらに優るものにはまだ出会ったことがない。だから、あの味がやはり恋しい。

③ 画廊喫茶 ルオー
ルオーはいまもあるが、これは昔のルオーである。いまのルオーは東大の正門近くにあるが、昔のルオーは、赤門の少し先にあった。
画廊喫茶を看板にするだけあって、店内の壁面には絵が何枚も掛かっていた。平土間風の広い店内は、独特の雰囲気があった。セイロン風カレーが名物で、デミサイズのコーヒーがついていた。自家製アイスクリームもあった。ウィスキーがあったのは、喫茶店としてはめずらしいと思う。これにはおつまみが付いた。ウェイトレスは、美大の女子学生のアルバイトだと、耳にした覚えがある。おそろいの茶の上っ張りを着ていたように思うのだが、これは曖昧な記憶に過ぎない。
いまのルオーは、そこで働いていた方が引き継いだらしい。ずいぶんと狭くはなったが、椅子とテーブルは、もとのものをそのまま利用している。店の表と店内奥の小さな格子窓も、以前の建物から移設したようである。メニューの品数は増えたが、ウィスキーはなくなった。セイロン風カレーは、いまもその名物である。

④万定
カレーといえば、正門前の万定(まんさだ)のカレーも忘れられない。ここはまだ現役の店である。本郷のカレー好きは、ルオー派と万定派とに分かれるらしい。私は、どちらにも通ったが、時間がない時は、万定に向かうことが多かった。
大昔は果物屋だったようで、屋号がそれを示している。「万惣」と同じである。フレッシュ・ジュースがあるのは、その名残だろう。店名も、正しくは「フルーツパーラー 万定」とある。ハヤシライスもあるが、私はカレーしか食べなかった。入口のレジスターがかなりの年代物(金銭登録機と呼ぶべきか)で、テレビや雑誌でこの店が取り上げられると、必ず紹介される。まだ稼働中というのがすばらしい。いつまでも営業していてほしい店である。

⑤萬盛庵
万定のある路地を入った奥にあった蕎麦屋である。お昼には、最もよく通った店かもしれない。ここの若女将は、愛くるしい顔の美人だったが、娘時分に某先生が勉強を教えたことがあると聞いた記憶がある。その後、お婿さんを迎えたようで、だからここの御主人は婿養子だったのかもしれない。もっとも、これは、まったくの推測に過ぎない。
もともとは、町中(まちなか)のごくふつうの蕎麦屋だったのが、いつかきわめて上品な蕎麦を提供する店へと変貌した。御主人の力が大きかったのだろう。もっとも、店構えはずっとそのままだった。蕎麦を一枚看板にするようになってから、品書きから丼物が消えた。しかし、馴染み客には、頼むと拵(こしら)えてくれた。同僚の某氏など、それに甘えて、いつもカツ丼を注文していた。お店にとっては迷惑だったかもしれない。
ここの若女将は、客を迎える際、必ず「いらっしゃいまし」という。「いらっしゃいませ」ではない。江戸言葉である。亡くなった万定の御主人も、いつも「いらっしゃいまし」だった。余計なことだが、大昔のテレビ番組「家政婦は見た」でも、最初の何回かは、市原悦子が、やはり「ごめんくださいまし」とやっていた。あの江戸言葉は、どういうわけだろう。
その萬盛庵が、突然、暖簾を下ろした。親御さんの介護のためと聞いたように思う。経営は順調だったに違いないから、これには驚いた。それ以上に、おいしい蕎麦を食べる店がなくなってしまったことに当惑した。その後、ずいぶん経って見つけたのが、壱岐坂上の「蕎麦切り 森の」である。ここは実にすばらしい店である。蕎麦は無論だが、酒、肴、どれをとっても、店主の繊細な神経が行き届いている。東京でもベスト10に入れていい店かもしれない。コロナ禍で、ずっと足を運んでいないが、無事に営業しているのかどうかが、気になる。

⑥アルルカン
本郷通りにあった、喫茶を兼ねたケーキの店である。店名のアルルカンは、道化師を意味するらしい。店主は、八代目桂文楽の息子と聞いた。もっとも、これも噂だから、真偽のほどはわからない。一度、若い噺家たちが、何人か客になっていたのに出合ったことがあるから、本当なのかもしれない。
ここの名物は、タルト・タタンで、まことに結構な味だった。論文などの相談を学生から受ける時には、この店をよく利用した。いまの皇后雅子様が学生時代、しばしば通われ、やはりタルト・タタンを注文なさったらしい。タルト・タタンは、渋谷のドゥ・マゴ・パリのものがよく知られているが、それに引けを取らないおいしさだった。そのアルルカンが、やはり突然、店を閉めた。もう、ずいぶん前のことになる。ひどくがっかりしたことを思い出す。

⑦近江屋洋菓子店
ここも、何年か前に、店を閉めてしまった。もっとも、本店はいまも神田淡路町で営業している。
本郷店も神田本店も、内装も外装もほとんど瓜二つなところが実に不思議で、意匠を共通にするのは、何か理由があったのだろうと思う。奥行きが深く、天井もずいぶんと高いので、広々とした感じがした。店の奥に、簡単な椅子とテーブルが置かれていて、ケーキやパンを、飲み物とともに、そこで食べることができた。息抜きにはちょうどよい場所だった。
この店の名物に、苺沢山のショートケーキを挙げる人もあるが、私はアップルパイを第一に推す。他の店のものとは、なぜか味が違う。実に贅沢なアップルパイである。いつもホールを買って帰るのだが、不思議なのは、カットされたものと較べると、何故かホールの方が割高のように思えて、その理由がいまもってわからない。あるいは、私の目の錯覚かもしれない。
ここの手提げの紙袋が文明開化の世を思わせるデザインで、①の明月堂の紙袋とどこか通ずる趣があった。
本郷店を閉めた理由はわからない。残念ではあるが、ここは本店があるから、アップルパイが食べられなくなったわけではない。

⑧学士会館分館
かつて赤門の横に、学士会館の分館があり、お昼時には、そこの食堂をよく利用した。神田本館と同様、学士会館精養軒が運営していた。この精養軒は、日本の洋食文化の草分けともいえる上野精養軒の分かれらしい。
お昼はもっぱら定食だが、そのポタージュ・スープが独特の色と味だった。それにメインの料理とパン。誰かが老人食だと評していたが、若い人びとには、たしかに物足りない量だったかもしれない。
分館は、研究会などでも、ずいぶんと利用した。やや広い部屋もあって、会食を伴うパーティも出来た。さほど広くはないが、食堂の外にはテラスと庭があり、夏期にはビアガーデンが開かれた。研究会の後など、そこに席を移すこともあった。蚊がやたらと多く、渦巻き状の蚊取り線香が、足もとにあちこち置かれていたのは、ご愛敬かもしれない。
便利に使っていたのだが、東大の再開発に伴い、廃館になってしまった。もともと東大の敷地に建てられていたので、やむを得ない結果ともいえるが、一つの時代が過ぎ去ってしまったかのような感慨を覚えたものである。

記憶をたどると、まだまだいろいろな店が出て来るが、際限がない。このあたりで留めておく。

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