金融教育とやらが、義務化されるらしい。
先日も、テレビを見ていたら、銀行の職員が中学校で、資産形成の方法について講義する場面が出て来て、おやおやと思った。株式投資の方法についても説明している。
私は、そこに大きな疑問をもつ。私は、いまの経済の仕組みについては無知同然だから、以下に述べることは、事情に詳しい人から見れば、おかしな理屈になるのかもしれない。
しかし、誰からも納得のいく説明を聞いたことがないので、ここに書くことにした。
私が子どもの頃は、株というものは、売り買いするものではなく、ずっと持ち続けるのが基本だった。株主、とくに大金持ちの株主は、自分が投資する会社の健全な成長を願って、その会社の株を保有するものとされ、利益という点でいえば、その株から得られる配当こそを目的としていた。いまのように、投機を目的として、いろいろな会社の株を短期的に売り買いをすることなど、まずなかったといえる。
投機を目的に、株の売り買いを生業(なりわい)とする人物は、相場師と呼ばれ、ほとんどヤクザ者に近い存在として意識されていた。獅子文六の小説『大番』の主人公などは、まさしくそうした人物にほかならない。仕手戦などという、馬鹿げた相場の操作もあった。株の売り買いの場を提供するのが証券会社だが、『大番』の主人公のモデルとなった人物も、そうした証券会社を興したとされる。
それゆえ、証券会社の社会的な地位は、銀行よりもずっと低かった。証券会社には、ずいぶんと怪しい会社もあったから、証券会社の集まる兜町(かぶとちょう)など、いかがわしい場所と見なされていた。
そのありかたが、どこで変わることになるのか。いまや、誰もが株を投機の対象とするようになった。アメリカの金融資本が日本の経済を席巻するようになってからのことなのだろうか。
しかし、これはどう考えても、不健全である。実体経済から遊離していることは、素人目にもあきらかである。株がもっぱら投機の対象になると、会社の存在など、どうでもよくなる。会社の存在が将来的に危うくなろうとも、株の売り買いによって、利益が生まれればそれでよい、とする風潮まで生まれている。どうして、こういう事態になったのか。
私はやはり、会社の健全な成長を願うことこそが、株主の務めであると考える。自らの利益のみを目的に、会社の経営にやたらと容喙(ようかい)する、ハゲタカファンドとやらに取り憑かれた会社の話を聞くと、実に不愉快である。こうして金儲けを計ろうとする連中は、一体何を考えているのだろう。昔の相場師、ヤクザ者とどこが違うのか。こういう連中には、まずは社会的な責任が欠けている、言い換えるなら、社会がどのようなものであるのかが、まったく見えていない。
こういう風潮は、アメリカから起こったのかと思っていたら、ある高名な経済学者が、アメリカの堅実な会社では、株主と会社の関係は、以前の日本のそれと同じく、株主は会社の健全な成長を見守る立場を保持していると話していた。すると、日本の状況は、かなり危ういところにあるといえる。
しかも、日本では、銀行までがおかしくなってしまった。証券会社と同じく、投機的な金儲けばかりを推奨するようになった。子どもの頃には、とても考えられないような状況である。
もし、金融教育なるものが、こうした投機的な金儲けを、資産形成の方法として推奨するなら、やはりどうかしているとしか思えない。私が生徒なら、説明に来た銀行員に、右のことを質問するのだが、その銀行員は、きちんと答えられるのだろうか。
実体経済から遊離したようなありかたは、どう考えても不健全である。そのことをつよく述べておきたい。