以前に書いた「呆(ぼ)けが進む?」の続きである。
いまや後期高齢者の年齢に近づきつつあるのだが、それとともに、ものの名がすぐに思い出せなくなった。その名は固有名詞であることが多い。そのありようを、やや分析的に書いてみたい。
「あること」を考えているうちに、突如、それに関連する「何か」が思い浮かぶことがある。ところが、その「何か」の名がすぐに出て来ない。それがどういうものであるかは、明瞭に認識しているのだが、その名が出て来ない。人の場合なら、どういう人物であるかは、頭の中にきちんと像が結べるのだが、その名がやはり出て来ない。
それがどういうものであるかの認識と、その名との間に、どうやらぼんやりとした壁があるらしい。そうした壁のあることが自覚できるからである。その名に行き着きそうになっても、壁が隔てになって、なかなか行き着けない。その感覚が、実に苛立(いらだ)たしい。
これは、脳の神経機能に関係するのだろうか。脳の神経細胞(ニューロン)の情報伝達は、接合部分(シナプス)を介して行われるようだが、接合部分の不調が、壁として意識されるのかもしれない。
「何か」の名を思い出そうと、必死に(大袈裟だが)考え続けているうちに、突如、思い浮かぶこともある。その瞬間、壁が消えて、その先がはっきり見えたような感じがする。昔の漫画に、よいアイディアが閃(ひらめ)くと、頭上で電球がピカリと光る絵があったが、そんな感じである。
接合部分(シナプス)の不調が、急に修復されて、情報伝達が再開したのだろうか。
前のブログにも書いたことだが、授業にしろ、講演にしろ、外で話す機会が、まったく失われてしまったことが、呆けの進行につながっているように思う。
何かを話すことは、脳をフル回転させることでもある。話しているうちに、連想があちこちに跳(と)ぶから、それが脳の機能を活性化させていたのだと思う。
コロナ禍で閉居暮らしを余儀なくされたことは、とりわけ私のような高齢者に、大きな悪影響をもたらしたのだということを、切に感じる。