雑感

乃木希典のこと

投稿日:2023年1月29日 更新日:

東大文学部には、退職予定の教員が、現・旧の教員(希望者のみだが)の前で、自身のこれまでの研究を振り返りつつ、講演する慣行がある。文化交流研究懇談会の名で、年度末が近づく頃に開催されている。

つい先日も、福井玲氏の「記録と記憶で振り返る1960年代の飛騨地方南部の暮しと言葉」と題する講演があったので、ZOOM開催であるのを幸いに、自宅で視聴した。

福井氏の御出身は、標題に見える飛騨地方南部、旧岐阜県益田郡萩原町(現在は下呂市に統合されている)で、講演では、その地域の暮らしのありよう、その独自な言葉遣いなどについて、詳しく話された。

なかなか興味深い内容だったのだが、とりわけ福井氏の母方の曾祖父、田中縫之助(敬称は略す)の戦死をめぐる話のところで、いろいろと考えさせられた。

縫之助は、日露戦争に陸軍歩兵中尉として出征。旅順攻略の際に、戦死。勲六等功五級に叙せられ、金鵄勲章(きんしくんしょう)を賜ったという(多田注:中尉の階級は、戦死による特進かもしれない)。
その田中家に、終戦後、旅順攻略を指揮した第三軍司令官乃木希典(のぎ・まれすけ)が、慰霊のために訪れたという。田中家には、その折の乃木の名刺が、いまも大切に保存されている。
日露戦争では、飛騨地方南部から出征した将兵の犠牲が、他の地域と較べて格段に多く、特にこの地域を選んで訪れたらしい。

しかし、田中家のように、乃木を好意的に迎えた家ばかりではなかった。講演で紹介された資料に、「多くはこれを歓迎したが、門を閉ざして、慰問をこばむ家もあったという」との記述が見られるからである(「引き裂かれた親子」『はぎわら文庫第14集萩原の史話・近代 編』、1992年萩原町教育委員会文化資料室)。

乃木が、弔問を思い立ったのは、多くの犠牲者を出したことへの贖罪(しょくざい)の意識からだろう。ならば、門を閉ざして、拒絶されたことに対して、乃木はどう感じたのか。己(おのれ)の責任、己の罪を、さらに深く自覚したに違いない。

明治天皇の崩御に際して、乃木は殉死する。その死の覚悟は、西南戦争の際、軍旗を奪われたことの責任を、万死に値するものとして意識したところにあったとされるが、それ以上に、日露戦争で、余りにも多くの部下を死なせたとする思いにこそあっただろう。乃木の詩「凱旋(がいせん)」は、その心情をよく伝える。

王師(おうし)百万、驕虜(きょうりょ)を征す。
攻城野戦、屍(しかばね)山を作(な)す。
愧(は)ず、我れ、何(なに)の顔(かんばせ)あってか、父老(ふろう)に看(まみ)えん。
凱歌(がいか)今日(こんにち)幾人(いくにん)か還(かえ)る。
[訳]
百万の皇軍は、驕(おご)れる敵を征討した。
城攻めの野戦に、屍(しかばね)は、累々(るいるい)と山をなした。
愧(は)ずべきことだ。私はどの面(つら)を下げて、その老いたる父親に顔向けができよう。
凱旋の歌の中、いったいどれだけの人が、今日、故郷に無事帰還できたであろうか。

ここには、「何(なに)の顔(かんばせ)あってか、父老(ふろう)に看(まみ)えん」とある。文字どおり、その思いを抱きながら、遺族の弔問に向かったのだろう。ならば、門を閉ざして、来訪を拒絶する遺族の態度は、さらなる痛みを乃木に覚えさせたに違いない。

乃木は、戦争終結の直後、明治天皇への復命の際、割腹して罪を謝したい旨を奏上している。だが、乃木の責任感の強さを知る天皇は、「今は死ぬべきときではない。卿(けい)もし死を願うならば、われの世を去りてのちにせよ」と仰せられたので、自刃を思いとどまったという(松下芳男『乃木希典』、人物叢書、吉川弘文館)。
それゆえ、乃木の殉死は、天皇の仰せに従った故の、先送りされた死の成就であったことになる。

こうした乃木の責任感、罪の意識は、しばしば武士道の精神の体現、あるいは武人の良心の発露とも評されている。明治天皇の崩御にあわせて、乃木が自刃したことは、武士道の精神の終焉を意味するとも説かれている。

夏目漱石が、『こゝろ』の中で、先生の自殺を、乃木の殉死と重ね、そこに「明治の精神」の終焉を見ていることも、同様な認識の現れであるに違いない。死ぬ覚悟を抱き続けながら生き延びざるをえなかった人生、――『こゝろ』の先生は、そこに乃木との相似を意識している。

こうした乃木の責任感、罪の意識は、いまなお顧みられてよいのではあるまいか。なぜなら、その根幹に、人が人としてあるべき、もっとも大切な覚悟があるように思われるからである。
そう思う理由は、無責任があたりまえのように横行する、昨今の現実を、実に腹立たしく感じるからである。近年でいえば、東日本大震災の原発事故をめぐる、政治家や東京電力経営者たちの態度に、大いに呆れている。これについては、以前、ある文章の中で言及したことがあるので、その箇所を引用しておく。池田潔『自由と規律』(岩波新書)を紹介しつつ、イギリスの支配階級のnoblesse obligeの理念、すなわち自由には一定の規律(=責任)が不可避的に求められることを述べ、その上で、その理念がいまも意味を持つことを、次のように記した。

(なぜnoblesse obligeの理念が意味をもつかといえば)……負うべきはずの責任を、いまや誰も取ろうとしないからです。そのことは、東日本大震災の原発事故後の日本政府(政治家)や東京電力の責任者(幹部)などの態度を見るとよくわかります。あれだけの難民を作り出しておきながら、誰一人責任を取った形跡がない。昔の武士の倫理感があれば、これはあきらかに切腹物でしょう。あるいは蟄居閉門(ちっきょへいもん)。要路にいた人間は、少なくとも社会の第一線から身を退くべきでしょう。ついでながら、東京オリンピック開催の目的に東北復興を標榜する破廉恥(はれんち)ぶりには、いまも呆れかえっています(多田一臣「文学部の逆襲・再論」『文学部のリアル・東アジアの人文学』、江藤茂博編、新典社)。

四年前の文章だが、ここに記したことは、いまも間違っていないと思っている。乃木が、戦争の犠牲者に対して抱いた罪の意識、その贖罪の意識は、このnoblesse obligeの理念と重なる。ならば、武士道の精神、武人の良心も、ここに重ねることもできるだろう。

東京オリンピックが、金儲けのための醜い集会に過ぎなかったことは、徐々に露呈しつつあるが、それへの批判は、すでにこのブログ「五輪狂躁曲」に記したので、ここでは繰り返さない。

いまや、noblesse obligeの本家本元であるイギリスからも、この理念は消え去ってしまったのかもしれない。サッチャー政権が掲げた新自由主義路線は、その後、世界を席巻し、日本の愚かな政治家どもも、これに追随する情けないありさまが続いている。彼らがお題目のように唱える「自己責任」とやらは、noblesse obligeとは、似ているようで、まったく意味を異にする。むしろその対極にある。

乃木の自刃によって、何かが決定的に喪われてしまったのは、確かなことだろう。上に立つべき者が、当然のものとして背負う責任といったものが、それ以後、完全に消えてしまった。日本の敗戦は、そうしたありかたを見直すよい機会だったはずだが、結果としては、むしろ反対に作用した。1960年代後半の大学闘争は、それへの反省を迫る、いわば倫理の根幹を問い直す意味をもつ闘いであったはずだが、利権構造を維持しようとする、巨大な圧力の前に、潰えざるをえなかった。

乃木の自刃は、『こゝろ』の先生が指摘しているように、武士道、武人の良心ともいうべき、「明治の精神」の終焉を意味したといえるかもしれない。ただし、『こゝろ』においては、乃木の罪の意識、贖罪の精神は、「西南戦争の時敵に旗を奪(と)られて以来、申し訳のために死なうと思つて」とも述べられているように、日露戦争において、多数の部下を死なせたところにまでは言及されていない。しかし、乃木にとっては、軍旗を奪われたこと以上に、こちらこそがより大きな問題であったはずである。『こゝろ』における先生の贖罪意識が、恋愛関係のもつれという、もっぱら個人的な事情に発している以上、その罪の意識は、noblesse obligeとは、決定的に違っている。ここには、死の覚悟を抱きながら、あえて命を存(ながら)えざるをえなかった個人の苦悩が記されているだけに過ぎない。この意味で、乃木と重なるところはあるとしても、実際には大きな隔たりがある。

以上が、福井氏の講演を視聴して、感じたこと考えたことなのだが、いささか話を拡げすぎた感もある。御容赦を乞いたい。

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