雑感

コリーニ事件・続

投稿日:2022年7月14日 更新日:

今回も過激な話題になる。

安倍元首相が銃弾に倒れたことには、同情はするものの、それ以上の思いを持つことはできない。このブログでも批判し続けて来たように、小泉や安倍などが推し進めた新自由主義(ネオリベラリズム)こそが、いまの日本の問題だらけの現状を生み出した元凶だからである。

だが、ここで述べたいのは、そうしたことではない。今回の銃撃事件で、あらためて浮かび上がった、戦後の闇の部分についてである。

かつて、「逆コース」という言葉があった。戦後の日本の復興は、占領軍(連合軍を標榜してはいるが、実質はアメリカ軍、その中枢がGHQ)の指令のもと、「民主化、非軍事化」を前提として進められた。ところが、労働争議が頻発し、社会主義運動が大きな高まりを見せるなど、危機的な状況がつよまると、占領軍(GHQ)は、一転、それへの弾圧をつよめるようになっていく。朝鮮戦争の勃発も、そこに大きく重なることになる。関心ある向きは、Wikipediaの該項目を御覧になるといい。要領よくまとめてある。

そうした中、占領軍(GHQ)は日本の再軍備をはかり、さらには戦前の体制を支えた指導者たちを利用することで、体制の再構築を進めることを決断する。前者が、警察予備隊(自衛隊の前身)の設置であり、後者が、拘留していた戦争犯罪者を釈放、あるいは不起訴とし、公職追放者の追放を解除することで、それら指導者たちの復権を許すことであった。これらの動きを称して、「逆コース」と呼ぶのだが、ここまでは、歴史のほぼ常識であろう。その結果、戦前の体制(利権も)を引きずった、かつての指導者たちが、再び実権を握るような状況が生まれることになった。すでに「コリーニ事件」で、簡略ながら述べたこととも大きく関係するので、ここでの題を「コリーニ事件・続」とした。

日本の場合、そうして実権を握った連中は、深く恩顧を蒙った故なのか、かつての敵国アメリカに対して、ひたすらすり寄る姿勢を取ることになる。その結果が、日本の独立と引き換えに結ばれた日米安全保障条約であり、その後現在まで続く、アメリカ追随の屈辱的な外交姿勢にほかならない。日米地位協定のような、不平等な協定は、同じ敗戦国であるドイツには、存在しない。

1960年の日米安全保障条約の改定をめぐる混乱は、「逆コース」への抗(あらが)いの最大の機会であったはずだが、結果として、岸信介の強行採決によって、押さえ込まれることになった。その岸が、笹川良一などとともに、統一教会の分身ともいうべき国際勝共連合の設立に深く関わっていたのは、ほぼ自明のことといってよい。これが、今回の安倍の銃撃事件の遠因であることは言を俟(ま)たない。

ただし、強調しておかなければならないのは、以上に述べた「逆コース」の歩みもまた、背後に広範な国民の支持があったという事実である。国論を二分したとされる1960年の日米安全保障条約の改定時でさえも、「逆コース」を容認する国民の意志は、結果としてつよかったというべきだろう。
戦争犯罪者の復権に際しても、むしろそれを歓迎する声が大きかったように思う。私が住む世田谷区(選挙区でいえば、旧東京三区)でも、戦争犯罪者の一人、賀屋興宣(かや・おきのり)は、衆議院選挙では、復権以後、ずっと高い順位での当選を続けていた。「コリーニ事件」でも述べたように、戦争犯罪を個人に問うのではなく、すべての国民が「一億総懺悔(いちおくそうざんげ)」の気持ちで、一切を水に流すという国民性が、日本人には根深く染み付いているためかもしれない。安倍の銃撃事件で、森友・加計問題は、いまやどこかに消え去ってしまいそうだが、それとても同じことだろう。犠牲者が出ているにもかかわらずである。ここから先は「民主主義の危機」「ヒトラー『わが闘争』」で述べたことの繰り返しになるから、いまはそれ以上は述べない。

ここで、唐突ながら、大島渚の映画『儀式』を思い起こした。あの映画では、私がもっとも好みとする女優、賀来敦子(かく・あつこ)が重要な役割を演じているのだが、そうしたことではなく、その主題が何であったのか、ということである。
戦後もつよく残る大家族の家父長制への批判を、儀式(葬式や結婚式など)の場を通じて浮かび上がらせた作であるとは、誰もが述べることだが、その大家族とは、おそらく日本そのものの寓意であるに違いない。家父長である桜田一臣(演者は佐藤慶)、――私と同名であるのが気になるのだが、その桜田の姓には、日本そのものを象徴する意味合いがあるように思う。

その桜田一臣は、公職追放の解除を受けて、経済界に復帰した人物とされる。とはいえ、この映画を見ても、その結末にいたる筋道が、今ひとつつかみにくい。立花輝道(演者は中村敦夫)は、自分こそが桜田家の正統な後継者だと言い遺してなぜ自殺することになるのか。桜田律子(演者は賀来敦子)は、なぜ後追い自殺をするのか。桜田家の現在の後継者である桜田満州男(さくらだ・ますお、演者は河原崎建三)は、なぜ一人取り残されることになるのか。――その意味するところが、やはり判然としない。桜田(桜)と立花(橘)とは対になるから(左近の桜、右近の橘)、そこにも寓意がありそうだが、その奥にこめられたものが、映像からはなかなか理解しにくい。1971年製作の映画だから、「逆コース」への最後の抗いの機会であった大学闘争が潰(つい)えた直後の作である。戦後民主主義に寄せた大島のメッセージであることは間違いないが、私の中では、いまだにこの映画を十分に咀嚼(そしゃく)しきれていない。

最後に一言。安倍の銃撃事件の直後、マスコミなどに「民主主義の危機」という言葉が溢(あふ)れていたが、その意味するところは、私のそれとはまったく異なっている。マスコミの軽薄さには呆(あき)れるばかりなのだが、あえてそうしているのだとすれば、なかなか狡猾(こうかつ)ともいえる。さて、どちらなのか。

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