雑感

橋本凝胤の言葉

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以前のブログ「顔を忘れる」で、私の字が下手な理由は、脳の認識機能に欠損があるからではないかと述べた。ものの形をきちんと写し取れないところから、そう述べたのだが、鉛筆などの筆記具を正しく持てないというのも、大きな理由かもしれない。

私の鉛筆の持ち方は、人とはずいぶん違う。親指・人差し指・中指で鉛筆を握るのだが、中指の第一関節にペンだこができる。正しい持ち方なら、こんなところにはできない。さらに、文字を書く場合、小指の第二関節を支点にして、鉛筆を動かす。そこにも、だから、ペンだこのようなものができる。そこを支点にすると、鉛筆の可動範囲は極めて狭くなる。それゆえ、どうやっても暢(の)びやかな文字にはならない。くしゃくしゃと丸まってしまうから、やはり字が下手な理由になる。

鉛筆と同様、箸も正しい持ち方ができない。人にはまったく真似のできない、不思議な持ち方らしい。
その持ち方だと、箸の先端同士をくっつけることができない。だから、細かなものが挟めない。ふつうの箸なら、それでも何とかなるのだが、利休箸(りきゅうばし)と称する、両端が細く、真ん中のふくらんだ箸だと、まったくのお手上げになる。

旧臘、高校の同級生だったI君と、妻恋坂の小料理店で食事をする機会があった。そこの箸が、利休箸だった。その箸で、大袈裟にいえば、悪戦苦闘しているのを見て、I君が、こんなことを言い出した。――「そういえば、多田君は、弁当はいつもスプーンで食べていたね」。

なるほど、そうだった。生物部の仲間と、昼の弁当を生物教室で食べていたのだが、箸ではなく、スプーンで食べていた。六十年近くも前のことである。
私の記憶から、すっぽりと抜け落ちていたのだが、I君にはよほどつよい印象を与えていたのだろう。箸をきちんと使えないから、そうしていたに違いない。

このように、私の箸の持ち方はおかしいのだが、そのことで、以前、腹の立つ言葉を目にしたことがある。それが、標題にした「橋本凝胤(はしもと・ぎょういん)の言葉」である。

『国語と国文学』平成24年2月号は、前年に逝去された築島裕先生の追悼記念号だが、そこに収載された奥田勲(おくだ・いさお)氏の「美しい光景――築島先生を偲ぶ」と題する追憶の中に、その言葉が出て来る。
奥田氏が、築島先生のお供をして、薬師寺で寺院資料の調査をなさった際の、思い出を記した記事である。以下、引用する。

その折、庫裏(くり)の台所で粥の昼食を御馳走になった。凝胤師とその頃はまだ若年の高田好胤(たかだ・こういん)師も席におられ、築島先生ともどもなかば緊張して御相伴にあずかった。……突然(凝胤)師が、築島先生に向かって、お前の箸の持ち方はなっていない、どんな親に教育されたのだ、と怒り始めたのである。いわゆる握り箸を見咎めてのことであるが、その叱正(しっせい)を聞きつつ大先生がうつむいて恐縮しながら膳に向かっておられたのを懐かしく想起する。

橋本凝胤は、当時、薬師寺管主で法相宗管長、奥田氏の文中(省略箇所)にも紹介されているが、「昭和の傑僧」と呼ばれた僧である。一部では、「昭和の怪僧」などとも評されたらしい。凝胤の法燈を受け継いだのが、高田好胤である。

築島先生が、「握り箸」でいらしたのかどうかは、わからない。しかし、この橋本凝胤の誹難(ひなん)の言葉は、やはりおかしい。「どんな親に教育されたのだ」とは、言ってはならない言葉だろう。なぜなら、私の箸の持ち方もおかしく、しかも私の場合、複雑な家庭環境で育ったからである。「どんな親に教育されたのだ」、という凝胤の言葉を目にした時、実に腹が立った。

もちろん、冷静に考えれば、凝胤の言葉は図星というべきかもしれない。その意味では、間違ったことを言ってはいない。だが、それでも、家庭環境を持ち出すのはおかしい。仏教者にあるまじき不遜な物言いである。もし、こういう家庭で育ちましたと言ったら、凝胤はどう答えるのだろう。凝胤は、いまも高僧として評価されているようだが、それを認めることは、私にはできない。

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