以前、オレオレ詐欺と呼ばれていた犯罪がある。高齢者に電話を掛けるなどして信用させ、ATMからお金を振り込ませたり、あるいは受け子とやらを介して、現金を詐取する犯罪である。いまでは、多様な手口があるらしく、特殊詐欺という名称が用いられている。筑摩書房のPR誌『ちくま』に、蓮實重彦(はすみ・しげひこ)氏が、隔月でエッセイを連載しているのだが、その蓮實氏にも、特殊詐欺の電話が掛かって来ることがあるらしい。それに関連する記事を二度ほど読んだ。
蓮實氏にまで掛かって来るくらいだから、わが家にもそうした電話があってもよさそうなものだが、幸いにもまだない。もっとも、私も血の気が多いから、騙(だま)された振りをして、受け子を家に呼び出し、いきなりバットで殴りつけたりするかもしれない。そうなると、こちらが逆に逮捕される仕儀になるから、それは想像に留めている。
特殊詐欺の犯罪が頻発するので、NHK総合TVの毎夕の番組「首都圏ネットワーク」では、「ストップ詐欺被害! 私たちはだまされない」というコーナーを設けて、詐欺被害の実例を紹介し、そうした被害に遭わないための啓発をおこなっている。
実は、ここまでは前置きである。数ヶ月前までは、このコーナーのタイトルは「ストップ詐欺被害! 私はだまされない」だった。「私たちは」ではなく「私は」だった。
なぜ「たち」を入れたのか。番組担当者の思いつきなのだろうが、実に馬鹿げた変更だと思う。「私は」なら、騙されないことへの、主体の明確な意志(決意)の表明になる。ところが「私たちは」では、その主体が不明瞭になる。「私たち」とは、いったい誰のことなのか。「私」は複数の中に完全に埋没してしまう。騙されないという明確な意志(決意)の表明であるなら、そうした曖昧さは、おかしい。断乎(だんこ)、「私は」であるべきである。
「私たちは」に、どうして変更しようと思ったのか。いまの若い世代の人びとは、自己を突出させることを極度に嫌う。あるいは恐れる。そうした意識が、ひょっとすると、ここにも作用しているのではないか。「私たちは」に変更することを提案した人に、ぜひその理由を聞きたいものである。