雑感

地べたに密着する日本人

投稿日:2022年7月16日 更新日:

ずいぶん以前のことになる。ヨーロッパからの留学生たちと、文学散歩をした時のことである。「先生は、足が速いですね」と、感心された。日本人の学生と一緒に歩くと、彼らの足があまりにも遅いので、いつも苛々(いらいら)するのだという。だから、「足が速い」というのは、褒(ほ)めてもらったことになる。

これは、そのとおりなので、学生たちを連れて、万葉の故地めぐりなどをすると、いつも私が一人で先頭を歩いている。学生たちは、ずっと遅れてぞろぞろとついて来る。それで、仕方なく、彼らが追いつくのを待つことになる。

日本人は、一般に、ヨーロッパ人と比べると、歩行速度が遅いらしい。私の足が速いのは、だから、日本人としては少数派に属することになるのだろう。
その理由がどこにあるのかを考えると、どうやら歩き方の違いにあるらしい。ヨーロッパ人は、脚を真っ直ぐに、足をスッスッと前に出して歩く。日本人は、その反対になる。よく見ると膝も少し曲がり気味である。私の場合は、ヨーロッパ人の歩き方に近いのかもしれない。

この身体性の差異は、どこから生ずるのか。多田道太郎に『しぐさの日本文化』(角川文庫)という本がある。ずいぶんと、大昔の本である。日本人のさまざまなしぐさ(多くは身体性と関係する)の分析を通じて、日本人の文化的な特質を解明しようとした本である。多田は、当時、京都大学の人文科学研究所(人文研)の教授だったが、いかにもその頃の人文研を髣髴させる研究である。人文研の研究については、このブログ「吉川英治『宮本武蔵』」でも触れたことがある。なお、多田道太郎と私は同姓ではあるが、何の縁(ゆかり)もない。

その『しぐさの日本文化』に「すり足」を論じた箇所がある(「すり足ⅠⅡⅢ」)。武智鉄二の説に依拠しながら、日本人の歩行の様態の基本がすり足、さらにはなんば歩きにあることを指摘している。なんば歩きとは、右足と右手(右半身)、左足と左手(左半身)を同時に前に出す歩行のありかたで、一見不自然に思われるが、日本の伝統演劇では、この動きがごくふつうに見られる。私は、大昔、狂言の稽古にずっと通っていたが、舞などではこの動きが常態であり、その逆はまずありえない。杖を突いて歩く場合も、同様である。

多田によれば、すり足、なんば歩きは、地べた(大地、土)に密着した、農耕民の身体的なありようであるという。そのまま肯(うべな)われてよい理解だろう。多田は指摘していないが、軽く膝を曲げることも、そこに付け加えておきたい。軽く膝を曲げて、腰を落とす姿勢がそこに生まれる。これこそが、日本の伝統演劇の基本の姿勢にほかならない。

地べた(大地、土)に密着したこの姿勢が、日本人の歩き方の根本にある。一方、ヨーロッパ人は、狩猟民とまで言い切れるかどうかはわからないにしても、そうした形質を受け継いでいるから、地べたとの密着度は、日本に比してあきらかに弱い。ヨーロッパが、椅子とテーブルの文化であることを考えても、その相違はあきらかである。日本の場合は、どこまでも地べたに貼りついている。
こうして染み付いた日本人の身体性は、地べたとの関係が薄れても、簡単には変えられない。だからこそ、いまもなお、日本人は膝を少し曲げ気味に、べたべたと歩くのだろう。

そうした、日本人の身体性をよく示すのは、オペラのダンスである。オペラでは、合唱団の人たちが、衣装を付けて、舞台上で「その他大勢」の役割を勤める。科白(せりふ)は基本的にはないが、集団としての演技は、それなりに要求される。
その中に、一斉にダンスをする場面がある。曲にあわせて、大勢が踊る。男女がペアになって踊るのが通例だが、日本の合唱団の面々が演ずると、まことに無様(ぶざま)な感じになる。ヨーロッパのオペラ劇場の公演では、緩慢な動きの年輩者同士でも、実に優雅に見えるから不思議である。
これは、あきらかに身体性の違いによるのだろう。日本人は、地べたに密着した身体性からなかなか自由になれないから、そのありかたがダンスにも現れるのだろう。

『しぐさの日本文化』には、「しゃがむ」姿勢も取り上げられている(「しゃがむⅠⅡ」)。これも地べたに密着した姿勢だが、欧米人には我慢のならぬ姿勢だという。戦後間もなくの頃、多田が酔って道ばたにしゃがみこんでいたら、大男のG.I.(アメリカ兵)に「立て」と怒鳴られた思い出が紹介されている。これも、興味深い話だと思う。

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