古代の文学を研究していると、政争の背後で、敵対者によって無実の罪を着せられ、悲劇の死を遂げた人物が少なくないことに気づく。
無実の罪を相手に着せる場合、しばしば密告者が登場する。私は、その密告者にいたく興味を覚える。
その一例として、長屋王(ながやのおおきみ)の事件を振り返ってみよう。
長屋王は、政敵である藤原氏の策謀によって、謀反の罪を着せられ、自尽させられた。神亀六年(七二九)二月のことである。その顚末については記さないが、その謀反は、密告者の密告によって露見したとされる。
密告したのは、漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)、中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)の二人である。事件が一段落した後、密告者の二人に対して、それぞれ外従五位下(げじゅごいのげ)の位が授けられ、また食封(じきふ)三十戸、田十町が与えられた。漆部君足は当時従七位下、中臣宮処東人に至っては無位に過ぎないから、きわめて破格な報奨といえる。外位(げい)とはいえ、五位以上は、准貴族ともいえるような地位だからである。
この密告には後日譚がある。事件から約十年後、その密告に端を発した別の事件が引き起こされる。
長屋王に仕え、その恩顧に預かっていた大伴子虫(おおとものこむし)という人物が、中臣東人と碁(ご)を囲み、話題がたまたま長屋王のことに及んだ際、憤激のあまり東人を斬り殺したという事件である。天平十年(七三八)七月のことである。東人は長屋王の謀反を密告した人物である。この時には、右兵庫寮(うひょうごりょう)の長官の地位にあった。子虫は、直属ではないものの、隣の部署の下僚だった。十年後のこととはいえ、結果として子虫は旧主の仇を討ったことになる。
ここで興味深いのは、『続日本紀(しょくにほんぎ)』が、この後日譚を記す中で、東人を「長屋王の事を誣告(ぶこく)せし人なり」と紹介していることである。無実の者を告発するのが「誣告」である。十年後の記事とはいえ、国家の正史である『続日本紀』が、長屋王の謀反を「誣告」の結果と見ていたことになる。長屋王事件を因果応報譚として語る『日本霊異記』の説話(中巻第一縁)も、長屋王自身の言葉としてではあるが、「罪无(な)くして囚執(とら)はる」と記しており、長屋王が無実であったことは、当時一般にも広く知られていたことが、そこからわかる。長屋王の謀反を密告した二人の人物は、おそらく世間からは「誣告」の張本人と見なされていたのだろう。
そもそも、謀反の「誣告」は、重大な罪を構成する。新日本古典文学大系本『続日本紀 二』脚注によれば、「闘訟律(とうしょうりつ)」佚文に「誣告謀反及大逆者斬(謀反及び大逆を誣告せる者は斬)」とあり、斬首に価する重罪であったことがわかる。しかし、『続日本紀』が中臣東人を「長屋王の事を誣告せし人なり」と注してはいるものの、東人が外従五位下の位を与えられ、右兵庫寮の長官の地位に就いていたことは、その「誣告」が少しも咎(とが)められてはいなかったことを示している。長屋王事件の黒幕である藤原氏の実権に揺らぎがない以上、それは当然のことであっただろう。
とはいえ、密告が「誣告」であることは、周知の事実でもあった。ならば、二人の密告者は、長屋王事件以後、負い目を背負って生きていたともいえる。破格な叙位や食封の支給は、そうした重荷を背負い続けることへの代償であったともいえる。
密告者のその後の人生は、絶えざる緊張を強いられるものだっただろう。一方の密告者である漆部君足のその後の動静は明らかではないが、不測の事態とはいえ、中臣東人が長屋王の縁故者によって斬り殺されたというのは、密告者の暗い人生を象徴する出来事であるように思われる。長屋王の事件は、東人の生涯に絶えず何らかの影を落とし続けたに違いない。それが、「後ろ指をさされる人生」と題した理由である。
東人のような密告者は、まだほかにもいる。そのありかたを探っていくと、さらに興味深い事例に出会ったりもする。それで、どこかで「密告者の系譜」のような論をまとめてみたいと思っている。
密告という行為は、いまもなお、全体主義的な国家では、一定の役割を果たしているように思われる。秘密警察のような組織にとって、密告は常套手段でもあるからである。もしそうなら、密告という行為が、密告者に「何らかの影を落とし続けたに違いない」と書いたのは、ずいぶんと情緒的な理解であったことになる。実際の密告者は、想像以上に図太い存在であるのかもしれない。「密告者の系譜」をたどる際には、そのことへの留意も必要になりそうである。