ラドゥ・ルプーが76歳で亡くなった。私は、実際の演奏は、2013年の東京オペラ・シティーでのリサイタルしか聴いていない。その時のプログラムに、フランスの音楽学者ジャン・パオロ・ミナルディが「言葉にできないものを表す独自のピアノ」という言い方で、ルプーのピアノを評しているが、まことにそのとおりだと思う。
今朝の朝日新聞の朝刊にも、「唯一無二 演奏家も惚れた」というタイトルで、その追悼記事が掲載されていた。音楽評論家の伊東信宏氏が、追悼の文を寄せているのだが、その冒頭に、実に興味深い氏の体験が書かれていた。
あれは20年ほども前のことだったか。モーツァルトのコンチェルトを弾いていたラドゥ・ルプーが、オーケストラの方にグッと身を屈(かが)めただけで、その響きが変化し、断然潤いが出てくる瞬間に立ち会った。奇跡のようだった。
これを読んで、私にもそれに近い体験があったことを、突然思い出した。ラドゥ・ルプーのことではない。もう60年ほどの昔になるが、レオニード・コーガンの演奏の体験である。
1965年11月4日の東京交響楽団第143回定期演奏会でのことになる。以前、このブログ「オーケストラの経営危機」にも記したことだが、東京交響楽団は、東京放送(TBS)から、突如、専属契約を打ち切られ、一旦は解散したものの、残された団員たちは、有限会社としてオーケストラを再発足させた。それが現在の東京交響楽団につながる。1964年のことである。
右の演奏会は、再発足して間もない頃のことになる。指揮者は、秋山和慶。レオニード・コーガンは、ソリストとして、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾いた。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第一楽章は長大で、ヴァイオリンのソロに入るまでの提示部もかなり長い。その提示部の最後は、弦楽全体のトレモロに続いてオーケストラ全体の総奏(tutti)になり、提示部を締めくくる。一瞬の沈黙の後、ヴァイオリンのソロが控えめに入ってくるのだが、この時の演奏会では、ずいぶんと様子が違っていた。
コーガンは、弦楽全体のトレモロのところから、突如、オーケストラと一緒になって、猛然と弾き始めた。第一ヴァイオリンのパートを一緒に弾いたのだと思うが、その途端、オーケストラの響きがはっきりと変わった。むろん、よい方向にである。
ソリストがいきなりオーケストラのパートを弾くことがあるのかどうか。私は、この時以外に見たことはない。いずれにしても、ソリストとしてはきわめて異例な行動であるに違いない。
コーガンは、なぜそうしたのか。ソロパートに入るまでの腕慣らしのためとも考えたが、どうもしっくりしない。考えられるのは、再発足後、まだ間もない東京交響楽団の演奏に、どこか納得がいかず、思わず一緒に弾いてしまった、ということなのかもしれない。事実、楽団解散後、有力団員の何人かは、別のオーケストラに移籍してしまい、その実力は前よりずいぶんと低下していた。
その時のプログラムに、音楽評論家の藁科雅美氏が、次のようなことを書いている。
……ヤンソンス(指揮者のアルヴィド・ヤンソンス。マリス・ヤンソンスの父。東京交響楽団とは浅からぬ縁があった)はきっとそれが(危機存亡の瀬戸際に立たされた東京交響楽団が)今どうなっているか、昔どおりに立派に活躍しているか、そのことをコーガンに《よく見て来て欲しい》と頼んだに違いない。(括弧内は多田の注)
もし、藁科氏の言葉どおりなら、上に推測したように、コーガンは、その演奏にどこか飽き足りない感じをもったのかもしれない。不思議なことに、コーガンが加わった途端、その響きはまったく変わってしまった。同じオーケストラとは思えない、生き生きとした響きになった。まさしく演奏の奇跡である。
この時の体験は、ラドゥ・ルプーの演奏で、伊東信宏氏が感じたのと、同じなのではないかと思う。もっとも、優れた指揮者は、オーケストラの奏者、演奏している当の奏者も驚くような音を引き出すことができるから、それと同じような現象が、ルプーやコーガンの場合にも生じたのかもしれない。
60年も前の出来事ではあるが、ルプー追悼の記事を読んで、その時の驚きをまざまざと思い出したので、ここに書くことにした。