デジタル化時代だという。今年、小学校に入学したばかりの孫娘が、学校からタブレットを貸与されたと聞いて、驚いた(実際には、給付に等しい)。教科書も、いずれ紙媒体から、デジタル化した画像へと少しずつ移行していくらしい。
私は、アナログ人間の典型なので、こうした流れには、とても付いていけない。
それ以上に、人間の思考が、デジタル化によって狭められるようになるのではないかを、危惧している。
その危惧の一端について、以下、述べてみたい。
古典文学の研究の世界では、索引のお世話になることがしばしばある。その索引も、いまや電子データ化された本文を用いて、パソコン上で、縦横に検索できるようになっている。なるほど便利この上ないといえる。
しかし、索引の使用には、もともと大きな弱点がある。たとえば、ある語句を検索するとする。索引、とりわけ電子データ化された索引を用いれば、全用例をくまなく、しかも短時間に拾い出すことができる。だが、その便利さが、かえって大切な何かを見失わせているように思う。
その理由は、検索するその語句とは異なる、しかし大いに関係のある語句などを、索引では拾い出すことができないからである。電子データ化された索引では、そこへの気遣いからか、ややファジーな仕様にして、類似性の高い語句を検索できる場合もある。だが、それとてもすべてを拾い出せるわけではない。
反対に、こうしたこともある。中国(台湾も含む)には、大昔から詳密な索引作りの伝統があり、文献の電子データ化もかなり早くから進められている。それゆえ、漢籍の用例などは、さほど苦労せずに調べ上げることができる。
日本の上代文学は、中国文学の影響を大きく蒙っているから、漢籍の用例を検討することは、研究上必須でもある。だが、昨今の論文を見ると、漢籍の用例を、これでもかとばかりに並べているものがあったりする。だが、そこに挙げられた用例を見ると、不必要なものが多く含まれていたりする。漢籍にその用例があっても、日本の文献がそれを実際に見ているかどうかは、また別の問題になる。見てもいない用例をいくら挙げても、まったく役に立たない。これはむしろ、索引が充実したために生ずる問題といえる。
理想をいうなら、用例を調べる際には、索引に頼らず、本文を頭から読み進めていくのがよいに決まっている。まったく気づかなかったような発見も、付随的に生まれたりもする。あるいは、これこそがもっとも大事なことなのかもしれない。国語学の泰斗であられた築島裕先生は、『源氏物語』の用例を探す際など、すべて頭からお読みになられたという。もっとも、先生から直接うかがったのか、伝聞だったのか、そのあたりの記憶は定かでない。私など、『源氏物語』を初めて通読した際には半年も掛かったが、築島先生は、重ねて読んでいるうちに、一週間で読めるようになる、と仰っていたように思う。たしかにこれは理想だろう。
右の索引と同じ問題が、昨今の図書館のありかたにも見られる。
図書館、ここではとくに大学図書館を念頭に置いているが、増え続ける蔵書の処理にどこでも悩まされており、図書館職員の定数削減もあり、完全閉架の自動式書庫の導入が図られることが多くなっている。
自動式書庫は、大きさ(判型)のみを基準に、書庫の空きスペースに、機械が自動的に本を次々と詰め込んでいく。閲覧者からの要請があれば、やはり機械が自動的に目的の本を選び出し、閲覧カウンターまで運んでくれる。
一見、効率的なようだが、このシステムには大きな欠陥がある。書庫に本を収める際には、書名を含む書誌情報が目録に記載される。司書の役割なのだろうが、書名を含むその情報は、電子データ化されて、閲覧者に提供される。
すぐにわかることだが、このやり方では、基本的には目的の本しか選び出せない。開架式の図書館、あるいは閉架式でも書庫に入れるような図書館の場合は、目的の本を探しながら、その左右に並ぶ、さらに重要な本に気づくことがある。それらの本をその場で開いて見ることもできる。そのことが、研究上の重大なヒントを与えてくれたりすることもある。私の経験でも、何度かそれがあった。
一方、完全閉架の自動式書庫では、仮に書庫へ入れたとしても(まず不可能だろうが)、本の配列は初手からバラバラだから、そんなヒントなど得られるはずもない。本との接点は、司書の手になる電子データのみだが、そこに登載された情報がどこまで信用できるか、疑えばそれもずいぶんと怪しいように思われる。書名はともかくも、キーワードのようなものは、およそ恣意的なものになりかねない。
それゆえ、大学図書館のような研究目的の図書館では、完全閉架の自動式書庫は、きわめて不適切だと断ぜざるをえない。
右に述べたことも、人間の思考が、デジタル化によって狭められるようになる一例といえるのではないか。
なお、教科書が紙媒体からデジタル化した画像になっていくことにも、私は基本的に反対である(有用な場合もあるとは思う)。画像は、精読という行為とはなじまない。もっとも、電車の中などで、「青空文庫」を愛用したりしているから、デジタル化の恩恵を、私自身も蒙っている。だが、繰り返しになるが、これは精読には向かない。
赤鉛筆で傍点を付したり(私は傍線は引かない。恩師秋山虔先生が、傍点を付しておられるのを見て、それをいまも真似ている)、余白にメモを書いたりするような読書は、デジタル画面ではおよそ無理だろう。付箋(ふせん)を付けたり、傍線のように線引きする機能も、場合によっては用意されたりもするが、実際の使用におよそ堪えるものではない。
デジタル化した画像は、記憶という点で、紙媒体よりもはるかに劣るらしい。そうした研究もあるやに聞く。ならば、時代の趨勢とはいえ、教科書がすべてデジタル化することには、大きな疑念を抱かざるをえない。
以上は、アナログ人間の繰り言というべきかもしれないが、どうであろうか。