子どもの頃、ラジオで落語を聴き始めてから、六十年はとうに越えている。そうした中で、噺家の好みも自然と生まれてくる。下手(へた)な噺家とは書いたが、つまるところは好悪の問題に過ぎない。世評は高くとも、よいと思えない噺家は、私にとっては、みな下手な噺家になる。
以下、思いつくままに、論(あげつら)ってみよう。
五代目 古今亭志ん生
いまでも、志ん生を「昭和の大名人」と評する向きもある。だが、私は一度も志ん生を上手(うま)いと思ったことはない。残された音源をいま聴き返しても、その印象は変わらない。間延びのした、しまりのない、しだらない芸である。融通無碍だという人もいるが、私にはいい加減な芸だとしか思えない。
志ん生は、脳溢血で倒れた後、芸風が大きく変わったとされる。ずいぶん以前、愛宕山(あたごやま)のNHK放送博物館で、大昔の志ん生の録音を聴いたことがある。演目は忘れたが、なかなか小気味のよいテンポで、これなら悪くないかもしれないという印象をもったことがある。しかし、私が聴いた志ん生のことごとくは、まずだめである。
三代目 桂三木助
安藤鶴夫がいたく贔屓(ひいき)にした噺家である。「芝浜」など、絶品だとされる。ところが、私は「芝浜」のような噺は、好まない。およそ聴きたくない厭な噺である。「妾馬(めかうま)(八五郎出世)」なども厭だといえば、私の好みはわかっていただけるかもしれない。いずれにしても、三木助の語り口には、暗さがつきまとっている。聴くうちに、どこか陰陰滅滅(いんいんめつめつ)として来る。三木助が人気を得ていたのは、ラジオの「とんち教室」のレギュラーだったためかもしれない。
三代目 三遊亭小圓朝
落語通の評価がきわめて高く、飯島友治氏などは、この小圓朝を名人の筆頭に挙げている。飯島氏が顧問だった東大の落語研究会は、小圓朝に稽古をつけてもらったと聞く。
これもずいぶん以前の岩波映画に「日本文化の源流」というシリーズがあり、そこに収められた「寄席の人々」の中に、小圓朝の稽古のさまが出て来る。小圓朝を選んで撮影したのは、その芸が正格を伝えるものとして、評価されたためだろう。
小圓朝の音源もかなりあるが、実のところ、まったくおもしろくない。淡泊すぎるところが、弱点として現れてしまう。玄人(くろうと)好みの最たる存在、といえるのかもしれない。
「寄席の人々」の中に、人形町の末廣亭で、小ゑん時代の立川談志が「反対車」を演じている場面が出てくる。談志も、この頃はまだ、堕落する以前の有望な若手だったことがわかって、そこがなかなか興味深い。
五代目 柳家小さん
上に掲げた噺家とは違って、小さんの舞台は、実際にもかなり見ている。ただし、好きにはなれない芸風である。不器用そのものといってもよく、まったく融通が利かない。当時は、「言訳座頭」「首提灯」「禁酒番屋」などを、悪くないと思って聴いていたのだが、その頃の音源をあらためて聴くと、少しもおもしろくない。やはり下手なのだと思う。小さんがどうして、「人間国宝」に認定されたのか。名人たちが、すべていなくなったためだとしか思われない。「あの小さんがね~」と、どうしても思ってしまう。
ついでながら、最近亡くなった、その弟子、十代目柳家小三治の芸も、私の好みから外れる。熱心なファンがなぜあれほどいるのか、その理由がまったくわからない。小三治も「人間国宝」だった。
先に、二代目桂三木助の名を挙げたところで、ラジオの「とんち教室」の名を出した。六代目春風亭柳橋も、その番組のレギュラーであり、やはり高い人気を誇っていた。
柳橋は、実のところ、上手(うま)いのか下手(へた)なのかがわからない。とてつもなくアクの強い芸風で、そこに柳橋の独自の型があるともいえる。他の噺家にはない、つよい個性が端々(はしばし)に現れている。不器用に見えるのだが、実は細かなところにまで、神経が行き届いている。聴かせる芸であることは間違いない。ならば、柳橋の場合は、上手い噺家に入れていいのかもしれない。
上手い噺家については、またどこかで書いてみたいと思う。