研究

……させていただきます

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近年、耳障りに感じられる言い回しが、標題にした「……させていただきます」である。
使う側は、丁寧な言葉遣いだと思っているのかもしれないが、時に、おかしな使用例もあったりする。

過日、死刑をめぐる軽口放言で辞職した、葉梨法務大臣の辞職談話をテレビで聞いていて、啞然とした。記者たちに囲まれた法務大臣(「元」とすべきか)が、冒頭で次のように述べたからである。

岸田総理に、国務大臣の辞表を提出させていただきました。

この場合の「させていただきました」とは、どういう意味なのか。不始末の結果の辞表を提出する行為に、「させていただきました」を用いるのは、奇妙である。
「させていただく」は、謙譲の表現ではあるが、その裏側には、周囲(対象となる自己以外の上位者)の温情によって、その行為を許容してもらった、とする意味合いが潜んでいる。それゆえ、不始末の結果の辞表の提出に、「させていただく」を用いるのは、おかしい。謙譲の表現を使うのであれば、「国務大臣の辞表を提出して参りました」とすべきところだろう。

この葉梨某の、言葉に対する感性の鈍さは、あの軽口放言にも繋がっているのかもしれない。一事が万事。そんなことを思ったりもした。

ここまでは、実は、話の枕に過ぎない。

問題としたいのは、研究発表の場で、この文言が用いられることである。
冒頭で「……について発表させていただきます」と、前置きする例が、近年増えてきた。若い世代の研究者に、しばしば見受けられる。

もとよりこれは、葉梨某のような誤用ではない。文字どおりの謙譲表現である。だが、こうした謙譲表現は、研究発表の目的とは、そぐわないのではあるまいか。
先にも述べたが、この謙譲表現には、周囲(対象となる自己以外の上位者)の温情によって、その行為を許容してもらった、とする意味合いが潜んでいる。
だが、研究発表とは、研究者の自己主張を貫く場にほかならない。そうした場に、なぜ周囲の温情によって、(発表という)行為を許容してもらった、という弁明を前置きしなければならないのか。実に不思議である。

研究発表(この場合は、とくに人文系の研究を念頭に置いているが)とは、ある意味で、戦いの場でもある。徹底的な議論(それが「戦い」ということだが)なくしては、研究の進展など望めない。議論(「戦い」)の場に、こうした謙譲表現は、およそ不適切である。

それにしても、なぜ、「……について発表させていただきます」が、とりわけ若い世代に増えてきたのか。
研究者に限らず、いまの若い世代の人びとは、自己を突出させることを、極度に恐れる。大学闘争を身近に経験した私たちとは、そこが大きく違うところかもしれない。
このブログの筆者紹介のところにも書いたことだが、自身の言動については、どこまでも責任を負うというのが、私たちの世代の基本的な心性だった。それゆえ、主張すべきことは主張するし、批判があれば、それを受けとめて徹底的に議論する。それが当たり前のことだった。

若い世代の研究者が、「……について発表させていただきます」と前置きするのは、自己を突出させることへの恐れ(むしろ不安というべきか)が、どこかにあるからではあるまいか。他者とは、できるかぎり軋轢(あつれき)を生じないようにしたい。そうした思いが、この前置きの背後にあるように、私には感じられる。

とはいえ、そうした軋轢を乗り越えないかぎり、研究は成り立たない。これもすでに記したように、徹底的な議論(「戦い」でもある)なくしては、研究(大きくいえば、学問)の進展はありえないからである。研究の場に、自己の責任を曖昧にするような謙譲の姿勢は、持ち込むべきではあるまい。

ここでもまた、世代論に陥ってしまった。老いの繰り言かもしれないが、私は「……について発表させていただきます」とは、言いたくない。

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