研究

型・形(かた)ということ

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大学に入学して、狂言研究会に入会した。大蔵流の山本東次郎師(当時は則寿(のりひさ)師)のもとに入門して、ずいぶんと稽古に通った。いまはすっかり縁遠くなってしまったが、二十年以上、毎週の稽古に通っていた。「鐘の音(ね)」「文蔵(ぶんぞう)」あたりまで演じたのだから、なかなかのものだと思う。

その稽古だが、思い返すと、昔ながらのやりかただった。謡(うたい)も科白(せりふ)もすべて口移し、舞(まい)も含めた舞台上の所作も、横に立つ師の仕草をただ真似るだけである。録音機器の利用は禁じられた。呼吸(息)が伝わらない、というのが理由である。厳しさの違いはあるにしても、玄人の稽古と同じである。いま思えば、まことに贅沢な体験をさせてもらったことになる。

本題はここからになる。真似こそが稽古のすべてだったのだが、「学ぶ」の本義は「真似ぶ」にあるから、その本義どおりに狂言を学んだことになる。
もう一つ注意すべきは、稽古の中では、曲の性格だとか、役の性根(しょうね)だとかは、一切教わらなかったことである。
当時は考えもしなかったが、日本の古典芸能の本質は、ここにこそ存在するのではあるまいか。それが、型・形(かた)(以下、型に統一する)の問題になる。

型(かた)というと、いい意味に用いられないこともある。「型にはまった」「型どおり」では、肯定よりも否定のニュアンスがつよく感じられる。
だが、私の受けた稽古は、そのまま「型どおり」に演ずることだった。これを、どう考えたらよいのか。

日本の古典芸能、とりわけ能や狂言においては、演技の究極のありかたが、明確な理想型として想定されている。その理想型こそが、型になる。ならば、型は絶対的な意味をもつ。さらにいえば、理想型であるがゆえに、型は永遠の課題にもなる。
それはなぜか。演技者である人は、身体的な制約を不可避的に抱え持つからである。人はそれぞれに個別の身体をもつ。身体の大きさは、みな異なる。手足の長さも同じではない。そうした個別の身体をもつ以上、理想型にいくら近づこうとしても、理想型との差は必ず生まれる。そこで、演技者は、少しでもそれに近づこうと、絶えず精進を重ねることになる。
舞を見るとわかるが、腕の上げ方が一センチ違っただけで、印象はがらりと変わる。理想型を目指すとは、その一センチのずれを、正しい位置に戻すようなことともいえる。

能や狂言では、「型どおり」に演ずることができれば、理想の舞台がおのずと実現される。ならば、曲の性格だとか、役の性根だとかを考えることは、二の次になる。下手な解釈を先行させることは、むしろ害悪になる。
宝生流の名人、野口兼資(のぐち・かねすけ)の逸話とされる話がある。何の曲かは忘れたが、ある舞台で、中入(なかいり)の際、作り物(舞台上に据えた、建物などを象徴する簡素な装置)の中で、後シテになる用意をしながら、間(あい)の語りを聞いて、この曲はこういう内容だったのかと、はじめて知ったという話である。大嘘に決まっているが、この話はしかし、上に述べたことの裏付けになる。曲の内容を知らなくても、「型どおり」の演技がきちんとできれば、名人の名に恥じない立派な舞台が生まれることを意味するからである。

古典芸能以外の演劇では、こうしたことはまず考えられない。演技者それぞれの役作りこそが重要であり、台本の検討は幾重にもなされるはずだからである。それ以上に、そうした演劇では、全体を統轄する演出家が必ず存在する。
狂言は、家単位の上演が基本だが、能は総合芸術といえるから、さまざまな役割分担がある。シテ方、ワキ方、狂言方、囃子方、地謡等である。だが、能には演出家は存在しない。上演前には、簡単な申し合わせ(打ち合わせ)はあるが、単なる確認に過ぎない。一期一会のごとくに集まり、それぞれの役割をきちんと勤めれば、それで舞台は立派に完結する。

歌舞伎にも似たところがある。それぞれの演目に応じて、家々の伝えがあり、役者はそのとおりに演ずるだけである。ここでも、演出家は存在しない。
歌舞伎の台本だが、役者は、原則として自分の科白の書き抜きしか持たない(いまもそうなのかは不明)。それで立派に上演できるのは、さまざまな約束事があり、幼いうちからそれを体得しているからである。舞台の立ち位置など、自然と呑み込んでいる。家々の伝えも、大きくいえば型と呼べるだろう。

歌舞伎の場合、役の上の創意工夫は認められてはいた。だが、それも自分の領分に限ってのことになる。落語「中村仲蔵」で知られる、初代仲蔵(秀鶴)の定九郎の新工夫(「忠臣蔵」五段目の斧定九郎(おの・さだくろう)は、もともとむさ苦しい山賊姿で登場したが、それを白塗りのすっきりとした浪人者の体(てい)に替え、観客をうならせた)も、上演までは相手役にも秘密にしていたというから、これも裏返せば、個々の領分が厳しく守られていたことの証しといえる。演出家がいたなら、仲蔵の勝手なふるまいなど、とても許されなかったに違いない。

能や狂言も、古典とされるまでには、さまざまな創意工夫が加えられたに違いない。それが固定されたところで、型の意識が明確になったのだろう。だが、身体性と不可分な舞台芸術の場合、理想型としての型の本質は、その演技の中に、当初から内包されていたようにも思われる。日本文化からは離れるが、たとえばバレエなどでは、どうであるのか。
型の意味は、古今東西を含め、伝統芸術すべてについて、もっと深く考えられてよいように思う。

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