雑感

藤井聡太と葛飾北斎

投稿日:2021年11月17日 更新日:

藤井聡太が、龍王位を獲得して、四冠になった。
将棋は、子どもの頃に少し囓っただけだから、駒の動かし方がやっとわかる程度の初心者に過ぎない。
だが、そんな初心者の目から見ても、藤井の存在は、並み居る棋士たちとは、まったく別次元のところにいるように思える。

そこで唐突に思い浮かんだのが葛飾北斎である。先週の水曜日、小布施(おぶせ)の北斎館を訪ねた。高速を利用すると、信濃追分の山荘から一時間半ほどで、小布施に着く。
北斎は、八十歳を過ぎてから、この地を重ねて訪れている。土地の豪農商、高井鴻山(たかい・こうざん)の招きに応じてのことだが、険峻な峠越えを含む、長丁場の道のりを江戸から徒歩で往復した、その体力にまずは驚く。

北斎館には、北斎の肉筆画が少なからず収蔵されている。その中の一幅「富士越龍図」が、不思議と印象に残った。富士山から立ち上る黒雲の中を、龍が天上を指して真っ直ぐに昇っていく図である。北斎の龍図は、最高傑作とされるボストン美術館収蔵の「登龍図」など、多数残されているが、この「富士越龍図」は、北斎最晩年の、おそらく絶筆といってもよい作である。

藤井聡太が、龍王位獲得の翌日、記者会見の場で掲げた色紙に「昇龍」とあったのを見て、すぐにこの「富士越龍図」を思い起こした。
藤井の「昇龍」に、この画に託した北斎の思いと共通するものを感じたからである。

北斎は、終生にわたって画工の道を究めようとひたすら努めた。天保五年三月、七十五歳になって刊行した『富嶽百景』初編の跋には、次のように記している。

己(おのれ)六才より物の形状(かたち)を写(うつす)の癖(へき)ありて、半百(五十)の比(ころ)より数々(しばしば)画図を顕(あらは)すといへども、七十年前(ぜん)画(えが)く所は実に取(とる)に足(たる)ものなし。七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟(さと)し得たり。故に八十才にしては益々進み、九十才にして猶(なほ)其(その)奥意(あうい)を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)。百有十歳にしては一点一格にして生(いけ)るがごとくならん。願くは長寿の君子、予が言の妄(まう)ならざるを見たまふべし。 画狂老人卍(北斎)述

実に驚くべき内容である。九十歳で奥意を極めるのはともかくも、百歳を超えなければ神妙の域に達しないとある。百十歳で「一点一格」が「生けるがごとく」になるというのは、画そのものの中に、描かれた対象が自ずと生動するさまをいうのだろう。こうなると、もはや、自他の境など、とっくに消えてしまっているのかもしれない。

北斎は、その死に際しても、次のような言葉を残したと伝えられている。

翁(北斎)死に臨み、大息し、天我をして十年の命を長ふせしめばといひ、暫くして、更に謂(いひ)て曰く、天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得(う)べしと、言訖(いひおは)りて死す。四月十八日なり。年九十。
(飯島虚心(半十郎)『葛飾北斎伝』上巻、明治26年(1893)刊)

『富嶽百景』の跋とも重なる言葉である。北斎が、終生「真正の画工」となることを目指していたことが、ここからも伝わってくる。北斎館の「富士越龍図」は、北斎のその思いを体現した一幅なのだろう。天上を目指す龍は、北斎その人の姿でもある。

そこで、藤井聡太である。藤井もどうやら、棋道を究めることのみに専心しているらしい。「もし将棋の神様がいたら」という問いに、「もっと上手になるように」とか「勝たせて下さい」ではなく、「一局お手合わせ願いたい」と答えたというのは、よく知られているが、これこそ藤井の真骨頂を示す話ではないかと思う。

成績だとか、賞金額だとか、さらにいえば将棋界の序列だとかは、まったく念頭にないというのは、その通りなのだろう。勝負に勝つことが目的なのではなく、いかに理想の将棋を指すのかが目的だとすると、なるほど一朝一夕には達しうる道ではない。それは、「真正の画工」を目指した北斎と同じである。ただし、北斎が大息したように、棋道を真に究めることは、現実には不可能に決まっている。だからこそ、日々それに向かって精進し続けるということになるのかもしれない。ならば、藤井聡太もまた、天上に昇る龍に己を重ねているのかもしれない。

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