ここでまた、川端康成の「たまゆら」に戻る。「たまゆら」の題は、緒(お)に通した勾玉がが触れあう微かな音に由来している。実は、川端は、この連続テレビ小説「たまゆら」の前に、同名の小説を書いている。ごく短い小説で、しかもテレビ小説とは、まったく筋立てを異にしている。そこでは、その勾玉の触れあう音が、小説の核心につながる重要な意味をもたされている。ただし、日向の地とはまったく無縁であり、『古事記』とも関係をもたない。年若く病死した若い女をめぐる物語である。その形見が、三個の勾玉になる。ところが、連続テレビ小説では、その勾玉の音は、直木老人とその家族の、ただの挿話(エピソード)に用いられているにすぎない。しかし、川端にはどうやら、勾玉の触れあう音への愛着があり、それゆえ、この連続テレビ小説の題にも、それを重ねて用いたのだと思われる。
もともとの小説「たまゆら」には、「たまゆら」という言葉について、語り手とおぼしき登場人物の男の、次のような説明がある。
また私は「たまゆら」という古語についても、それが「かすか」とか、「しばし」とか、あるいは「あるかなきか」とかを意味するとしか知らなかった。玉と玉とがゆれて触れ合う音が「たまゆら」の語源なのか、玉がゆれるまたたく間が「たまゆら」の語源なのか、私にはわからない。
この説明は、川端の理解と見てよいだろう。ここでは、「玉と玉とがゆれて触れ合う音が「たまゆら」の語源なのか」と述べられていることに注意したい。ここに、この言葉の本質が現れているように思われるからである。
そこで、以下、このユラという言葉に注目してみたい。
『古事記』の、イザナキのミソギによって、三貴子(アマテラス、ツクヨミ、スサノヲ)が、誕生する場面である。イザナキ、イザナミは、ともに協力して国生み、神生みをするが、その果てに、イザナミは、火の神カグツチを生んだために、大火傷を負い、死んでしまう。ただし、『古事記』には「死んだ」とは記されていない。そこは注意すべきだろう。「神避(かむさ)る」が、そこでの表現になる。「神避る」の「神」は、一種の接頭辞で、神の行為であることを示す意味をもつ。サルはこちら側の意志にかかわりなく移動する意。何かがこちらにやって来るのも(「春されば(=春がやって来ると)」などのサル)、向こうに去って行くのも、ともにサルといった。ここは、イザナキの意志にかかわりなく、イザナミが死者の世界である黄泉の国に行ってしまったことをいう。
イザナキは、イザナミの後を追って、黄泉国(よもつくに)(黄泉(よみ)の国)に赴く。そこで、「見るな」の禁(イザナミの恐ろしい姿――「うじたかれころろきて」とあるように、イザナミの体には蛆がわきうごめいて異様な音を発していたとあるから、腐乱した死体の印象がつよい――を見てはならない)という禁」を犯したために、黄泉国の軍勢に追われ、這々(ほうほう)の体(てい)で逃げ出すことになる。黄泉国は、死者の世界でもあるから、そこはケガレに満ちた世界でもある。そのケガレを除却するため、イザナキはミソギをする。水の力、水の霊威によってケガレを除却するのがミソギである。
ケガレは、日常の秩序(この世界の褻(け)の秩序)を脅かすような、禍々(まがまが)しい状態を意味する。しかも感染性をもつ。それゆえ、生じたケガレは、どこかで消し去らなければならない。水の力、水の霊威によって、ケガレを除却することができると考えられた。それがミソギである。
なお、罪ケガレ、ミソギハラヘという言葉がある。いまでは、区別なく用いられているが、古代では、明確な違いがある。罪は、共同体の聖なるありかた(神聖な存在、あるいは秩序など)に対する侵犯行為を意味した。その侵犯者に科せられたのがハラヘである。罪を除却するために、贖物(あがもの)(罪を贖(あがな)うための提出物)を差し出して謹慎することが求められた。それがハラヘである。
罪(行為)―――― ハラヘ
ケガレ(状態)―― ミソギ
ところが、罪とされる侵犯行為は、結果として、そこにケガレの状態を生じさせる。それゆえ、そこに生じたケガレも、除却されなければならない。そこで、罪ケガレ、ミソギハラヘのように、両者を同じくくりで捉えるような意識が生まれることになる。
さて、イザナキは、黄泉国(よもつくに)のケガレを除却するため、ミソギをすることになるのだが、そのミソギの場こそが、連続テレビ小説「たまゆら」で、直木が訪れた場所、「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばなの)小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)」にほかならない。先にも述べたように、大淀川河口付近、江田神社のあたりに比定されている。神社の所在する地名も、宮崎市阿波岐原町(あわぎはらちよう)とある。
そのミソギの果てに、三貴子が誕生する。イザナキが左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うと、ツクヨミが、そして鼻を洗うとスサノヲが誕生する。ここには、左を右よりも上位と見なす中国的な観念が現れている(左大臣が右大臣よりも上位であることも同じ)。鼻を洗う際、スサノヲが誕生したというのは、その暴風雨神的な属性を示すためと思われる。
イザナキは、その三貴子に、それぞれが支配すべき領分を定める。そこに、ユラという言葉が現れる。
この時に、伊耶那岐命(いざなきのみこと)、大きに歓喜(よろこ)びて詔(の)らししく、「吾(あ)は子を生み生みて、生みの終(はて)に三柱(みはしら)の貴(たふと)き子を得たり」とのらして、即ちその御頸珠(みくびたま)の玉緒(たまのを)、もゆらに取り揺(ゆ)らかして(緒に通した玉の触れあう音が玲瓏と響くまでに取り揺らがして)、天照大御神に賜ひて、詔らししく、「汝(な)が命(みこと)は、高天原(たかあまのはら)を知らせ」とのらして、事依(ことよ)さし賜ひき(お委ねになった)。故(かれ)、その御頸珠(みくびたま)の名は、御倉板挙之神(みくらたなのかみ)と謂(い)ふ。……
ここに、「その御頸珠(みくびたま)の玉緒(たまのを)、もゆらに取り揺(ゆ)らかして」とあるところに注意したい。括弧内に訳を付したが、イザナキは頸(くび)に懸けていた玉、その「緒に通した玉の触れあう音が玲瓏と響くまでに取り揺らがして」、それをアマテラスに授け、その上で高天原(たかあまのはら)(なお「高天原」の読みは、タカアマノハラであり、タカマガハラと読むようになるのは、時代が降ってからのことになる)の支配を、委ねたというのである。
問題は、イザナキが頸に懸けていた玉を、「もゆらに」揺らがしたとあるところである。モユラニのモは接頭語と見てよいから、玉をユラに「取り揺らかし」たことになる。ここには、ゆらゆらと揺すること、そしておそらくその玉が触れあう玲瓏とした音とが、同時に表現されていたことになる。それこそが、川端のいう「たまゆら」であろう。なお、イザナキが首に懸けていた珠は「御倉板挙之神(みくらたなのかみ)」と呼ばれているが、これはどうやら稲霊(いなだま)(穀霊)らしい。後(のち)に、天孫降臨の際、アマテラスがホノニニギに授ける「八尺勾璁(やさかのまがたま)」(三種の神器の一つ)とは異なる。
こうしたユラの例は、『万葉集』にも、いくつか見られる。二首だけ例を挙げておく。
足玉(あしだま)も手玉(ただま)もゆらに織る機(はた)を君が御衣(みけし)に縫ひあへむかも(巻十・二〇六五)
(訳)足に着けた玉も手に巻いた玉もゆらゆらと揺らめき鳴らしつつ織る布を、あなたのお着物に縫い上げることができるだろうか。
初春(はつはる)の初子(はつね)の今日(けふ)の玉箒(たまばはき)手に取るからにゆらく玉の緒(を)(巻二十・四四九三)
(訳)初春の初子の今日の玉箒を手に取ると、ゆらゆらと鳴る玉の緒よ。
一首目は、七夕歌。機織りをする織女の立場で詠まれた歌である。織女は、牽牛(彦星)の着物にする布を織るために、機織りをしている。「足玉」は足首に巻いた玉で、手首に巻いた「手玉(ただま)」とともに、もともとは、神迎えをする神女(巫女(ふじよ))の装いとされた。
このユラもまた、玉が揺らめくさまの形容だが、玉同士が触れあう玲瓏とした音をも意味する。
二首目は、正月の初子(はつね)の儀礼に関係する記事。天平宝字二年(七五八)正月三日、孝謙天皇が、臣下を集めて初子の賀宴を開いた際に、高野箒(こうやぼうき)の枝で小型の箒を作り、そこ玉を付けて装飾とし、臣下に下賜した際に、大伴家持によって詠まれた歌である。
もともと中国に起源をもつ儀礼で、「玉箒(たまばはき)」は、帝王躬耕(ていおうきゆうこう)(帝王自らが耕作する)を象徴する鋤(すき)とともに、后妃親蚕(こうひしんさん)(皇后自らが養蚕をおこなう)を象徴する道具とされた。この時に用いられた「玉箒(たまばはき)」(「目利箒(めとぎぼうき)」とも)が、「手辛鋤(てがらすき)」とともに、正倉院御物として現存する。色とりどりのガラス玉がついている。箒は、蚕(かいこ)の床(とこ)を掃き清める意味があるという。
なお、現在も宮中には、紅葉山御養蚕所および付属の桑畑があり、皇后様御自身が養蚕をなさっている。皇太后様(「上皇后」などという、根拠のないいい加減な名は用いたくない)が、絶滅に瀕している在来種の蚕「小石丸」を育成なさっておられたことも、広く知られている。なお、皇太后様の養蚕は、たくさんの写真とともに、『暮らしの手帖』九四号(一九九七・一〇)に紹介されている。「玉箒」が、臣下に下賜されたのは、孝謙天皇が女帝であったためかもしれない。
この二首目の歌の場合も、「ゆらく玉の緒」とあり、「玉箒」を手に取ると(つまり手に取って揺らすと)、触れあう玉同士が玲瓏とした音を発しているさまが表現されてている。
ここから、ユラが、音、つまり聴覚だけでなく、視覚的にも捉えられるような感覚として表現されていることが見えてくる。
このことは、実は、かなり大事な問題を含んでいる。玉のゆらゆらとした揺らめきは、視覚と聴覚、そのいずれによっても捉えられていることになるからである。いま視覚と聴覚と区分したが、古代人の意識としては、おそらくそれを全身的な感覚として捉えていたのではないかと思う。玉の揺らめきは、いまの私たちには、その音が聞こえなくても、古代の人びとには、そこに微妙な音、微かな音色を感じ取っていたのではあるまいか。それこそが、川端の言葉に現れた「たまゆら」にほかならない。