少し先のことになるが、府中の森芸術劇場(府中市)と武蔵野市民文化会館(武蔵野市)とで、同日に演奏会があり、前者から後者へと、二つの会場を渡り歩いて聴きに行く必要が生じた。さほど離れてはいないので、簡単に行けるだろうと考えた。
ところがである。調べて見ると、実に面倒で時間が掛かる。前者の最寄り駅は京王線の東府中駅、後者は中央線の三鷹駅である。京王線で武蔵野台駅に行き、そこから少し歩いて白糸台駅で西武多摩川線に乗り換え、さらに武蔵境駅で中央線に乗り換えて、三鷹駅へ行くというのが順路らしい。線路が交差しているにもかかわらず、武蔵野台駅と白糸台駅とは離れており、乗り換えのため歩かざるをえないというのは、実に馬鹿げた話で、乗り換え駅を作ればいいだけのことなのだが、鉄道会社が違うからやむを得ないという理屈なのだろう。もう一つの行き方は、京王線で明大前駅まで戻り、井の頭線に乗り換えて吉祥寺駅に行き、さらに中央線に乗り換えて、三鷹駅に行くというもの。これも、同様に馬鹿げている。
なぜ、こんなことになるのか。地図を見れば一目瞭然だが、京王線と中央線はほぼ平行に走っており、それを結ぶルートはごく限られているからである。
京王線と中央線が平行なのは、歴史的な事情がある。そのことを記した篠崎四郎「汽車を追い払った町」という一文を、大昔に読んだことを、そこではたと思い起こした。これも、以前のブログ「渋沢秀雄のこと」に書いたことだが、昭和二十年代に刊行された日本交通公社発行の『旅』という雑誌が十冊ほど手許にある。先の一文は、その昭和二十六年五月号に載っている。ついでながらこの号も、総合文芸誌の趣を呈しており、執筆陣だけを紹介すると、土師清二、吉川幸次郎、尾崎一雄、福島慶子、高橋義孝、井伏鱒二、河上徹太郎、轟夕起子、戸塚文子、玉川一郎といった面々が名を連ねている。
そこで「汽車を追い払った町」だが、これによると、明治時代の中頃、甲武鉄道が、甲州街道沿いに鉄道を敷設しようとしたところ、「そんなキリシタンバテレンが通りやあ、町は寂れちまわあな」とばかりに、街道沿いの調布や府中の有力者たちはことごとく反対し、そこでやむなく、新宿から大久保へ、さらにその先は武蔵野の草原や雑木林の中を一望二十余キロ、西に向かって一直線に延びる鉄路が敷設されたのだという。いうまでもなく、それが現在の中央線になる。
時が経つにつれ、甲武鉄道(中央線)の沿線は発展していくが、「汽車を追い払った町」である甲州街道沿いの調布や府中は賑わいを失って、寂れる一方。それで、あらたに京王線を誘致することになる。そればかりか、巣鴨脳病院(松沢病院)、多磨墓地、東京競馬場、果ては巣鴨監獄(府中刑務所)まで積極的に受け入れたのだという。
こんな経緯(いきさつ)があるので、京王線と中央線とは平行に走るままで、互いの連絡ルートは、先にも記したように、ほとんどない。あるのは、バス路線のみ。何とも不便なことである。そこで、府中の森芸術劇場のあたりから、中央線方面へのバスのルートはないかと調べてみたのだが、見つからない。これでは、先に記した二つの行き方のいずれかを選ぶしかない。はてさて、困ったことである。