雑感

存在矛盾

投稿日:2025年8月29日 更新日:

存在矛盾と題したが、こんな言葉は多分ない。あるいはもっと適切な言葉があるのかもしれないが、思い浮かばないので、このままにしておく。存在そのものが矛盾を抱えている、そうしたありかたのことをいう。

ここで取り上げたいのは、女の噺家という存在である。
そもそも、私は、意識するようになってからでも、七十年近く落語を聴いて来た。このブログでも、落語について何度か取り上げている。
そんな落語好きではあるが、演じてみようと思ったことは一度もない。高校や大学でも、落語研究会に所属したことはない。旧帝国大学の卒業生の親睦団体に学士会という組織があり、その同好会の一つに「落語会」がある。毎回、噺家を招いて一席演じてもらい、その後、その噺家と懇談する会らしい。私は、八代目林家正蔵にずっと私淑し(これは誇張ではない。そのことについては、「林家正蔵のこと」『図書』第774号、岩波書店、に記した)、大まかに言って、平成以降の噺家をまったく認めない立場だから、その「落語会」に加わろうと思ったこともない。

学士会には、ほぼ季刊の会報『学士会会報』があり、そこには同好会の報告も毎号掲載されている。ところが、最新の会報(No.973)の「落語会だより」を見て驚いた。立川流の女の噺家立川小春志が「蒟蒻問答」を演じたことが報告されている。それによると、小春志は立川流初の女の真打だとある。さらに「小春志師匠は、入門当時は談志一門に女がいるのが許せない客がいたが、近年は女性の噺家も増え、やりやすくなったと話して下さいました」ともあった。ならば、私などは(談志一門など、談志も含めてまったく認めない立場だが)「女がいるのが許せない客」になるのだろう。

とはいえ、それには明確な理由がある。近世末期以降、明治期に完成した落語の芸の態様、芸態は、背景となる世界を男中心のそれに置いており、そこから現れ出る粋、うがち、洒落などの表現は、ことごとく男が演じ手であることを前提とすることで成り立っているからである。あきらかな性差別であるには違いないが、それをとやかく言い立ても始まらない。落語とはそうした時代性を背景とした芸だからである。女がそれを演じたなら、芸態そのものが成り立たなくなる。そのことがわからないのだとすれば、もはやお手上げである。それゆえ、女が噺家になるなど、感性の欠落だとしか思われない。落語の本質がどのようなものであるのかがわかっているなら、間違っても女の噺家になろうなどとは思わないはずだからである。女の噺家とは、それ自体、存在矛盾であるというのは、その意味からである。

同様なことは、他の古典芸能についてもいえる。歌舞伎の「女形」を持ち出すまでもないだろう。能の世界においても、事情は基本的に同じである。女流能楽師の先駆者津村紀三子の生涯を描いた金森敦子氏の『女流誕生』という労作があるが、これを読んでも、なお超えることのできない、男女の絶対的な隔たりがあることを、私などはむしろつよく感ずる。
狂言方の場合は、さらにそうだろう。本邦初の女性狂言師を謳う(そこに和泉流のお家騒動が背景としてあったことはともかくも)和泉淳子、三宅藤九郎姉妹の舞台など、まず見ようとは思わない。身体のありようが、芸態と不可分である以上、男女の性差は絶対的な意味をもつからである。ここに「男女平等」とかを持ち込んでも何の意味もない。

女の噺家が増えたのだとすると、落語そのものが素人芸の延長と呼ぶしかない、もはや聴くに堪えないようなものに成り果ててしまったことの証なのかもしれない。

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