先週(7月25日号)の学習用英字新聞“the japan times alpha”に、南アフリカ在住のジョン・エイラムという人のエッセイが載っていた。「幸福の追求(The pursuit of happiness)」という題で、幸福の追求はどこまでいっても際限がなく、それを追求するかぎり、決して満足感は得られない。だから、次の「幸福」を定義する方程式(equation)に従えばよいのだとして、次の一文を示す。
Happiness is what you have minus what you want.
「あなたが持っているものから、あなたの欲しいものを差し引いたところに、幸福はある」ということだろうか。
これを読んで、すぐに標題とした「吾唯知足(吾(わ)れ唯(ただ)足(たる)を知る)」を思い起こした。「知足」とは、常に満ち足りた心持ちでいることであり、そうした心持ちを保つことができるなら、何の不安も抱かずにすむという意味である。だから“Happiness is what you have minus what you want”とほぼ同義になる。
「吾唯知足」という言葉を知ったのは、いまから60年前、高校二年の修学旅行で、京都の龍安寺を訪れた際のことである。庭の蹲踞(つくばい)にこの四文字が刻まれていた。真ん中の四角な水穴を「口」に見立て、その「口」をうまく利用して、四文字が上から時計回りに「吾唯足知」と並んでいる。「知足」が「足知」の順になるのは、訓読に従ったというのではなく、デザイン上やむを得なかったのだろう。「足」は「口」を上に置くしかないからである。この蹲踞を、寺では、徳川光圀の寄進と説明している。
「吾唯知足」の出典はわからないが、「知足」は仏教、とりわけ禅家にとっては、大切な言葉とされる。禅家で重視された経典「遺教経(ゆいきょうぎょう)」(正式には「仏垂般涅槃略説教誡教(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)」)に、「知足」が大きく取り上げられているからである。釈迦が涅槃に際して、最後に説いた教えを記した経典とされる。そこに、「知足」が大きく取り上げられている。
汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は即ちこれ、富楽安隠の処なり。知足の人は、地上に臥すと雖も、なお安楽と為す。不知足の者は、天堂に処すと雖も、亦意に称わず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。知足の人は、貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲の牽く所となり、知足の者のために憐愍せらる。これを知足と名づく。
もっとも、「知足」の言葉は、禅家のみならず、中国の道家の教えなどにも見えるから、安楽に生きるための処世の法としてずっとあったと見ることもできる。だが、龍安寺の蹲踞の文字は、やはり「遺教経」と結びつけるのがよいように思われる。
“Happiness is what you have minus what you want”が慣用句でなく、ジョン・エイラム氏が見つけ出した「方程式」であっても、「吾唯知足」との類似はあきらかだから、生きるための教えは、古今東西を問わず、変わらないということだろうか。