岩波書店のPR誌『図書』の編集方針が、少し前から大幅に変わった。体裁も変わった。七月号は、「怪異の愉しみ」という特集が組まれており、四本の論を載せている。こうしたありかたは、前にはなかったように思う。
それはともあれ、この七月号で、特集とは別の二本の論に目を引かれた。一つは、須賀しのぶ氏の「氾濫する世界を渡る」と題する論で、その冒頭に「人は、十四歳前後に好きになった音楽のジャンルは一生好む傾向がある」とあって、まさしく私の場合がそうであることを、いまさらながら納得したからである。須賀氏の論は、自身のトーマス・マン愛好に、その問題を結びつけていくのだが、私の場合、このブログのどこかに記したように(「音楽の嗜好」)、中学一年のどこかで、ワインガルトナー指揮の第九のSPレコードを聴いて、身の震えるような感動を覚えて以来、いわゆる西洋のクラシック音楽にのめりこみ、それ以外のジャンルの音楽を嫌悪するようになったから、この一文に出会って、それが私にぴたりと符合することを自覚したのである。もっとも、この一文について、須賀氏は「そんな記事を以前読んだことがあるが」と注しているから、もともとこれは誰かの言葉なのだろう。それにしても、この言葉には深く頷かされた。
これとどこかで結びつくことがあるのかもしれないが、もう一つの論も、なかなか興味深い内容だった。笠間直穂子氏の「彫刻の時間」である。視覚に障害をもつ人も、そうでない人も、すべて手で触れることを前提に、彫刻と建築模型を展示する、イタリアのオメロ触覚美術館の紹介から説き起こされた論である。その中で、絵画と彫刻の本質的な相違の有無が論じられるのだが、ここに引用された詩人(あるいは評論家)のボードレールの言葉にいたく賛同の念を覚えた。ボードレールにそんな批評があるとは、恥ずかしながらまったく知らなかったのだが、ボードレールはその批評「一八四六年のサロン」の中で、絵画と対比することで彫刻の劣位を論じ、「なぜ彫刻は退屈か」について述べているのだという。
笠間氏は、この論の冒頭を、触覚美術館の紹介から始めたように、このボードレールの見方に修正を迫るべく論を展開するのだが、そしてその論は、充分に説得的ではあるのだが、私はやはり「なぜ彫刻は退屈か」というその見方に賛意を示したい。つまり、私にとって、彫刻は絵画ほど興味を引かないのである。さらにいえば、ヨーロッパの主要な美術館でも、よほどの有名作品でないかぎり、観客は彫刻の前ではあまり足を止めたりしない。ほとんどが素通りしていくような彫刻展示室もある。だから、私のような人間も少なくないはずである。
その理由として、ボードレールが述べていることが妥当かどうかはわからない。しかし、彫刻はやはり絵画ほどおもしろくない。これは、私にとっての真実なのだから仕方がない。笠間氏は、ボードレールの主張を周到に批判しているが、それを認めたところで、彫刻をつまらなく思う私の気持ちは変わらない。
なぜ彫刻をつまらなく思うのか。ボードレールの高踏的な説明(その説明は、笠間氏の紹介によるが)を見ても、それは私には当てはまりそうもない。ただ単に関心が持てないというに過ぎない。
これは、須賀しのぶ氏の論の「人は、十四歳前後に好きになった音楽のジャンルは一生好む傾向がある」ということにつながる何かが、かつての私にあったのだろうか。それはしかし、いまとなっては不明とするほかない。