例によって、“the japan times alpha”の記事から。昨年のアメリカ大統領選挙でトランプがなぜ当選し、その結果どういう事態が生ずることになったのかを解説、予測する記事が連載されている。
その先週号の記事に、トランプが大統領になったら、トランプが訴追されていたさまざまな事件が、おそらくはうやむやにされてしまうのだろうとする予測が示されており、その理由が、次のように記されていた。
That's because Trump can choose whom to staff the Justice Department with.
しかし、そうしたありかたは、通常の大統領なら避けることだとして、以下のような一文が続いていた。
Normally, presidents choose impartial people, because it's important for voters to know that justice is blind.
ここで、はたと当惑した。“justice is blind”の意味がわからなかったからである。この記事には、簡単な語注もあり、このフレーズにも「司法は客観的で偏りがないこと」とする説明が付されていた。だがそれでも、釈然としない。blindが盲目であることだとすると、むしろ意味は反対になるのではないかと思ったからである。
それで辞書をいろいろ調べて、やっとわかった。ここから先は、法学部の出身者などには、――いや、そうでなくとも、これはほとんど常識に属することなのかもしれず、だから、自身の無知をさらけ出すようで、気恥ずかしいのだが、やはり書いて見る。
これは、正義の女神テミス像に由来するフレーズなのだという。この像は、司法の公正さを象徴するため、手には剣と天秤を持っており、欧米などでは裁判所などに置かれているという。日本の弁護士のバッジに天秤が描かれているのも、それゆえだという。
ここで注意すべきは、この女神像が顔に目隠しをしていることである。正義は見かけに左右されることなく、対象と公平に向き合うことによってのみ実現されることを、目隠しが象徴しているのだという。
そこでやっと“justice is blind”が、「司法は客観的で偏りがないこと」を意味する理由がわかった。類似の言い回しに、“justice is not always blind”というのがあり、これも反対の意味に捉えられやすいが、無論、「正義はいつも盲目とは限らない」ではなく、「正義がいつも正しいとは限らない」という意味である。
ここで、「心眼」という言葉に思い当たった。訓みは、シンガン、シンゲンの両様があるらしい。実際の眼ではなく、心の眼を意味する。
『往生要集』は、往生極楽のための要諦を実践的に説いた、専心念仏を鼓吹するための、天台浄土教の基本となる書だが、その中に観想念仏の法が説かれる。「心眼」の語がそこにしばしば現れる。一例を挙げれば、「阿弥陀仏の真金色の身に、光明徹照し、端正無比(たんじようむひ)にして、心眼の前に在(いま)すと」(巻中、別時念仏)などとある。
では、なぜ「心眼」なのか。その一つの説明に、次のような記述もある。仏身の放つ光明は、偏く十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てないが、それを知覚できないのは、煩悩が「眼を障(さ)へて」見ることができないからだ、というのである(巻中、観察門)。
実際の眼は、煩悩によって曇らされているから、対象を正しく見ることができない、というのである。これは、正義の女神の目隠しと同じ主張である。ならば、blindは「心眼」と言い換えることができるのかもしれない。
落語にも「心眼」という噺がある。三遊亭圓朝の作だが、禅に帰依した圓朝らしく、主人公の盲目の按摩(あんま)梅喜(ばいき)の葛藤を通じて、「心眼」こそが生の実相を捉えるのだとする真理を見事に描き出している。八代目桂文楽の得意とする噺だった。