昨日(11月19日)の午後、紀尾井ホールで催された、「第十回 青山よかちょろ落語会」を聴きに行った。青山高校落語研究会のOBたちが演ずる会である。OBといっても、演者の大半は、すでに八十路を越えており、今回をもって最後の公演とするらしい。
冒頭の演目が、標題にした「千早振る」だった。在原業平の、よく知られた「百人一首」の歌、
ちはやぶる神代(かみよ)もきかず龍田川(たつたがは)からくれなゐに水くぐるとは
に、珍解釈を施した噺(はなし)である。
千早(ちはや)という名の花魁(おいらん)が、いまはすっかり零落して、物乞いの身となってしまう。全盛時分に、袖にした相撲取りの龍田川、――いまは廃業して、豆腐屋を営む龍田川の店先で、ひもじさから卯の花(おから)を恵んでもらおうとするが、かつて自分を振った千早であることに気づいた龍田川は、卯の花を遣(や)らずに、追い返す。身をはかなんだ千早は、側(かたわら)の井戸に身を投げて死んだ、というのが、その大要になる。
歌に即して、再度、確認する。
花魁(おいらん)の千早(ちはや)が、相撲取りの龍田川を振る。妹女郎の神代(かみよ)も、龍田川の言うことを一向に聞かない。龍田川が、卯の花(おから)を呉れずにいるので、千早は水に潜(もぐ)って死んだ。「水くぐるとは」の「とは」とは、千早の本名だ。
昨日の公演では、演者は、「水くぐるとは」を「水くくるとは」として、演じていた。井戸に身を投げるのだから、「水くぐる(水潜る)」でなければならないはずだが、「水くくる」と演じたのは、それがこの歌の通説ともいうべき読みだからであろう。
「百人一首」も、同じ歌を収める『古今集』も、現行の注釈書類のほとんどは、「水くくる」と読んでいる。
だが、この歌の注釈史を探ると、「水くぐる」の読みが、連綿と続いて来たことがわかる。中世以降、近世中期までは「水くぐる」の読み以外は見られない。それを「水くくる」に改めたのは、賀茂真淵である。
真淵によれば、「水くくる」は「水括(くく)る」であり、括(くく)り染めの意があるとする。『百人一首うひまなび』(天明元年(一七八一)刊)に見える説である。
真淵は、龍田川に流れる紅葉が、川の白波を括り染め、つまりしぼり染めにしていると解した。これが、ほぼ通説として、現在も受け継がれている。
そこで問題となるのは、先の落語「千早振る」の理解である。「千早振る」は、あきらかに「水くぐる(潜ぐる)」の読みを前提にしている。
この落語には、その典拠となった笑話がある。『鳥の町』(来風山人、安永五年(一七七六)刊)の「講釈」、それとほぼ同工の『百人一首和歌始衣抄』(山東京伝、天明七年(一七八七)刊)の「在原業平」である。
『鳥の町』については、『古典落語 第一巻』(第二期、筑摩書房)の「千早振る」の解題(飯島友治氏)に、詳しい紹介がある。
『百人一首和歌始衣抄』については、国会図書館蔵の版本画像によって確認することができた。「(ちはや=千早は)からす川へ身をなげける、その心を水くゞるとよめり」(清濁は本文のまま)とあり、濁点が施されているから、「水くぐる(潜る)」と解されていたことがわかる。身を投げるのが、井戸でなく、川(「からす川」とある)であることは、違いとして注意される。
先の『古典落語』には、演者の三遊亭小圓朝と飯島友治氏との短い対談が付されているが、飯島氏は、「水くぐるとは」と演じるにしても、「「水くくる〔しぼり染めにする〕とは」が正しいことを承知していたほうが、その珍妙なとりちがえの効果を一層楽しめることになりましょう」とも付け加えている。飯島氏のこの言葉は、真淵の理解がほぼ通説になっていることを意識したためだろう。
だが、実のところ、真淵の理解を是とすべきかどうか、私にはまだ疑念が残る。
「百人一首」、その撰者である藤原定家の理解に立つなら、「水くぐるとは」でなければならないからである。
ここで参考とすべきは、島津忠夫氏の労作『百人一首』(角川文庫)である。島津氏は、執筆の基本を、定家がその歌をどのように理解したかに置く。そこで、この本では、当該歌の下句を「龍田川からくれなゐに水くゞるとは」とし、その上で、その現代語訳を「龍田川にまっ赤な色に紅葉がちりばめ、その下を水がくぐって流れるということは」とする。
もっとも、島津氏は、この歌の本来は、やはり真淵以来の通説に従うべきだとする。「鑑賞」の箇所で、「この歌を作った業平にかえってよめば、賀茂真淵以下今日の通説の、下句を「こんなにまっ赤な色に水をくくり染めにするなどとは」といった解釈が正しいであろう」と、その立場を明確に述べている。だが、上に「疑念が残る」と記したように、私自身は、真淵以来の通説が妥当かどうか、まだ釈然とせずにいる。
ここで、ごく最近、そうした通説への疑問を示した論が公表されているので、紹介してみたい。森田直美氏の「水は括られたのか」(「都留文科大学研究紀要」89集、2019年3月)と題する論である。
森田氏は、真淵の挙げる論拠、とりわけ二首の証歌の理解に疑問があるとする。さらに、括り染めが、業平の当時、上流貴族の愛好するものではなく、より豪奢(ごうしゃ)な織物が、重視されたこと、そうした染めを用いるのは、むしろ日常着の類であることを、服飾史の成果を例証としつつ、指摘する。さらに、この歌が、二条后の「御屛風」の屛風歌である以上、そうした括り染めを業平が詠ずる可能性は著しく低い、とも述べている。その上で、真淵の理解は、近世において、括り染めが重視されるようになった、そうした時代状況の反映ではなかったか、と結論づけている。つまり、「水くぐるとは」が、本来の読みであった、とするのである。
もっとも、「水くぐるとは」の読みを是とするにしても、その解釈は一様ではない。これもまた、森田氏が検討しているように、「紅葉の下を水が潜りぬける」「紅葉が流れる龍田川を「紅の水」と見る」という、二つの理解が並立するからである。森田氏の結論は後者だが、前者の理解も、中世以来、多く見られ、ここでも結論はなかなか出しにくい。落語「千早振る」、その典拠である笑話に従う場合は、前者になるから、これもなかなかややこしい。
私自身は、「水くぐるとは」に傾きつつも、前者、後者、いずれに与(くみ)すべきか、そこにも迷いを生じている。そこで、思い起こすのが、「その心あまりて、ことばたらず」(『古今集』仮名序)とある、業平の詠みぶりへの評である。ここにも、そうした詠みぶりの特徴が現れており、それがこの歌の理解を難しいものにしているように思われるのだが、どうだろうか。「龍田川紅葉乱れて流るめり渡らば錦(にしき)中(なか)や絶えなむ」(『古今集』仮名序、秋下・二八三)のような歌なら、よほどわかりやすいのだが。