宇能鴻一郎(うの・こういちろう)といえば、官能小説作家として知られているが、もともとは純文学作家であり、芥川賞も受賞している。
東大の国文科の卒業生で、大学院にも進学しているから、研究者への道もどこかで考えていたのかもしれない。上代文学の専攻だから、私にとっては、文字どおりの先輩にあたる。宇能は、『折口信夫全集』第八巻「月報」(昭和41年6月)に「辻々に立つ折口氏」と題する小文を書いているが、そこにも自身の研究内容が紹介されている。
その宇能に、九大の生体解剖事件を扱った短編がある。「肉体の神」である。『別冊小説現代』(昭和45年10月)に掲載された。
九大の生体解剖事件とは、日本軍が撃墜したアメリカのB29爆撃機の搭乗員のうちの8名を、九州帝国大学医学部において、生きながらに解剖した事件をいう。戦争の最末期、昭和20年5月から6月のことである。代用血液の可能性、肺切除の限界、手術の新たな術式を試すため、等々を名目とする実験であることを標榜しはしたものの、「どうせ処刑される捕虜なのだから」と、彼らの死は当初からの前提としてあった。その行為が医道の倫理に抵触することも、関係者には内々に意識されていたらしい。
この事件が、新聞報道等は別として、一般に広く知られるようになったのは、遠藤周作『海と毒薬』が発表されてからのことだろう。『文学界』の昭和32年6、8、10月号に連載された。
『海と毒薬』は、生体解剖の主導者ではなく、いわば上司に従うかたちで、事件にかかわらざるをえなくなった人びとを、その一人一人の生活や内面に寄り添いつつ描いている。実際の事件を骨格にしてはいるが、そこに描かれたことの大半は、作者によるフィクションである。
平野謙は、角川文庫版の「解説」で、「それらはすべて生体解剖という異常な事件を内面化し、平常化するための作者による虚構にほかなるまい。つまり、作者は異常な状況における異常な事件を、できるだけ医局内の派閥争いとか恋愛とかの平常な次元に還元しようと努め、そのことによって、日本人の罪責意識そのものを根源的に問おうとしたのである」と述べており、その理解がいまも適切であるように思う。
そこで、宇能の「肉体の神」である。
作者の分身を思わせる大学生が、子どもの頃からいつも散歩に訪れていた、故郷の沼のほとりで、釣りをする一人の老人と出会う。その老人から、不思議な話を聞く。その老人こそが、この短編の主人公になる。
老人には二つの人格があり、老人であると同時に、若々しい青年でもあったという。その青年は、数年前に事故死して、いまは老人の記憶の中にしかいない。青年の像は、老人の生の中にいわば嵌入(かんにゅう)しており、入籠(いれこ)になっているともいえる。だから、精神病理の多重人格とは、やや異なるところがある。
老人は、かつて生体解剖にかかわった九大の助手であるという。助手は、捕虜の一人の解剖を任されるのだが、手術前の健康診断の場で、その捕虜の肉体――白人の男の若く美しい肉体に魅了されてしまう。あらぬ思いに突き動かされて、その性器を弄(もてあそ)ぼうとするところで、捕虜の男から、その不道徳を穏やかに諫(いさ)められる。助手は、その捕虜の態度に、「父」なるありかたを感じ取り、捕虜の男こそがむしろ絶対的な優位にあることを、反対に意識する。
捕虜の肉体の美しさは、自身も含めた日本人の卑小で粗野なありかた、とりわけ野蛮で無知な日本の軍人のふるまい、病院内にうごめく患者たちの醜悪なさまの裏返しとしても捉えられている。そこも、この短編を読み解く鍵だろう。
数日後、助手は、「肺葉切除実験」の名のもとに、その美しい捕虜の肉体を、己(おのれ)の手で切り刻む。麻酔で意識を失う直前、男のまなざしの中に、助手はどこか暗黙の許しを感じ取る。そこでも助手は、「父」なるありかたを男の中に見る。
憎悪をかきたてようとはするものの、それはできず、美しいものを失わせる悲しみに囚われつつも、何とか解剖をやり終える。相原という大尉の申し出を受けて、いまは空洞となった捕虜の身体から「生き肝(肝臓)」を取り出して、大尉に提供する。大尉は、「敵を喰らうて浩然の気を養う」ために、仲間とともに、それを調理して食べるのだという。
その時、突然、助手の心中に、次のような思いが浮かび上がる。
《そうだ。自分もボレーリ(多田注:捕虜の名)を喰おう。ボレーリを体の中にとり入れて、彼と一つになろう。野蛮な軍人の肝だめしのためにだけ、ボレーリを供することはない、もっともボレーリを愛した自分こそ、ボレーリを喰う権利があるはずだ》
その思いに取り憑かれた助手は、「ボレーリの肝」「美しい青年の生き肝」を食べてしまう。後の裁判で、「人肉食」が罪に問われた際、助手は尋問でもこのように答え、ついに狂人とみなされて、精神病院に収容されることになる。
「人肉食」は、現実の「生体解剖事件」の裁判でも、重要な争点の一つとなった。関係者の自白調書が告発の根拠とされたが、最終的には取り調べ官の強制的な誘導があったとみなされ、被告全員が無罪となっている。ただし、軍医の一人が、捕虜の肝臓を取り出して、別の場所に運ばせたのは事実であり、その目的は、兵舎の南京虫駆除の一助にするためだったという(真偽のほどはわからない)。
もっとも、「人肉食」の件は、当時、センセーショナルに報道されたこともあり、宇能の作では、それをむしろ積極的に利用している。『海と毒薬』でも、主要な登場人物の一人である戸田が、手術皿に載せた捕虜の肝臓を、軍医のもとに届ける場面がある。「アルコール漬けにして記念にでもとっておくんだろ」という科白(せりふ)もあって、こちらは「人肉食」とは結びつけられていない。
精神病院を退院した助手は、いつか少年になっている。裁判の途中から、いっさいの記憶が途切れ、新制中学に通う神島国雄という少年になっている。それが、「もう一人の私」になる。
神島は、赤倉ノリエという女教師から妖しい誘いを受け、いつか密かな関係を結ぶ仲になる。赤倉は理科の教員だが、かつて進駐軍のクラブ勤めの経験があり、英語にも堪能なところから、英語も教えていた。派手な身なりではあるが、教員としてはなかなか有能で、弁舌にも長(た)けている。
赤倉には、白人の男に対する絶対的な憧憬(しょうけい)がある。空想ではあっても、金持ちの、栄養のいい、大柄な白人に抱かれることが、赤倉のコンプレックスの中心をなしている。
その赤倉の相手に、なぜ神島が選ばれたのかはわからない。中学を卒業後も、二人は関係を続け、やがて大工見習いとなった青年神島は、赤倉と結婚する。
神島は、白人の男の代用であることを、どこかで自覚しており、同時にまた赤倉に自分の「母」を感じている。
結婚後ほどなく、神島は交通事故に遭い、一ヶ月後に死ぬ。その死の床で、神島は赤倉を「母ちゃん」と呼び、また「父」である白人の男に赤倉が抱かれ、その横で自分が寂しそうにながめる場面を幻覚として見る。
かつて九大の助手であった老人は、死んだ神島が、いまの自分であることを大学生に告げ、さらにその上で、「一つの魂が、二つの肉体に、交代にやどることは現実にあるのだと思います」と語る。
さらに老人は、その眼がいまはほとんど見えなくなっていると明かし、「父なる青年を殺し、母のような女教員と結婚した」と述べて、己をオイディプス王に重ねている。それが、この短編の結びになる。
オイディプス王の悲劇に連想を及ぼそうとする宇能の意図が、この短編で十全に達成できているかどうか、その評価はなかなか難しいところがある。神島と赤倉の関係が、すっきりと描けていないからである。とはいえ、官能小説作家としてきわめて多忙な時期にあった宇能が、こうした純文学の世界に位置づけられるような作を残していることは、やはり注意される。性描写もないわけではないが、煽情的なものとはいえない。官能小説とは明らかに一線を画している。力編であるのは間違いない。
宇能はなぜこの短編の執筆を思い立ったのか。その念頭に、『海と毒薬』があったことはたしかだろう。それ以上に、宇能は修猷館(しゅうゆうかん)高校の卒業生だから、福岡は地元である。おそらく、九大の生体解剖事件の一部始終は、その記憶にずっと残されていたに違いない。それゆえ、『海と毒薬』とはまったく別の、宇能にとっての独自な世界を、ここであらためて描こうとしたのだろう。
それにしても、白人の男の美と日本人の野蛮さ、卑小さとの対比は、あまりにも露骨である。そこに抵抗を覚える向きもあるかと思う。だが、文明批評としてはありうる視点だと思う。夏目漱石の『三四郎』でも、広田先生が、汽車の窓からホームを歩く白人夫婦を見て「どうも西洋人は美しいですね」と漏らす場面がある。いまなら違う、これは差別だと力んでも始まらない。
なお、生体解剖事件については、上坂冬子(かみさか・ふゆこ)『生体解剖 九州大学医学部事件』(昭和54年、毎日新聞刊、中公文庫にも)があり、この事件の真相の徹底解明を目指した、ノンフィクションの文字どおりの労作として、高く評価することができる。
正直な印象を述べれば、『海と毒薬』も「肉体の神」も、上坂の本の重さには及ばない。
事件の当事者である平光吾一(ひらこう・ごいち)(もと九州帝国大学医学部解剖学教室主任教授)が、『海と毒薬』の雑誌掲載を受けて執筆した手記「戦争医学の汚辱に触れて 生体解剖事件始末記」(『文藝春秋』、昭和32年12月号)も、資料として重要だが、これには当事者の自己弁護もかなり混じっている。
上坂の本を読み返して、いまも引っかかるのは、事件の真相を暴(あば)き立てることに対して、上坂が受け取った警告のような手紙の一節、「現在事件関係者はひっそりと生活しており、今更済んでしまった過去を徒(いたずら)に世に曝(さら)された場合に、その弊は累(るい)九族(きゅうぞく)に及ぶ結果になりましょう」との文言である。そういえば、これも「人肉食」への告発が登場するドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」にも、同様な言を吐く関係者が登場していたことを思い起こす。
すべてを水に流す、という日本人に広く見られる思考ともいえるが、これこそが無責任体制を生み出す根源にほかならない。宇能の短編からは逸脱するが、そのことを最後に述べておく。