前のブログで、図書館、とりわけ大学図書館の完全閉架の自動式書庫の問題点について書いた。今回は、その関連で、図書館の図書の配列の方法、その根拠とされることの多いNDC(日本十進分類法)が、いかに愚劣(不合理)なものであるかについて述べてみたい。
NDCがいかなる経緯で生まれ、なぜこれが多くの図書館の分類基準として採用されているのか、その事情が私にはまったくわからない。
以下、私がこれを愚劣(不合理)と断じる理由を記してみたい。
① 90番台が「文学」に割り振られているが、なぜ10番台の「哲学」、20番台の「歴史」とこれほど離れているのか。人文学は、俗に哲・史・文といわれるように、その根幹は、「哲学」「歴史」「文学」にある。それゆえ、これらは相互に深い関係をもつ。それにもかかわらず、なぜ「文学」のみが、遠く離れた番号を割り振られているのか。
② 人文学の中でも、「歴史」と「文学」は、とりわけ関係が深い。双方にまたがる本は、数多くある。『古事記』や『日本書紀』、あるいはその関係書など、どちらにも分類されていたりする。
大きな図書館などで、「歴史」と「文学」とで、二階と三階のように、階を異にすることがあったりするが、これは実に困る。
それゆえ、人文学に分類される本の配置は、近接すべきである。広尾の都立中央図書館は、NDCの分類を採用しているが、人文学でひとまとまりの配置にしている。一つの見識といえるだろう。
以上は、開架式を採用する図書館に顕著に現れる問題ではあるが、その根本にNDCの愚劣さ(不合理)があるのは間違いない。
③「文学」の下位分類にも大きな問題がある。その分類は、作品のジャンルを基準としており、その成立の時代への配慮がまったく見られない。それゆえ、古典は常にぞんざいな扱いを受けている。どの図書館でも、多く配架されるのは近・現代の作家の作品だから、古典はその隙間(すきま)に紛(まぎ)れ込むように配列されている。矢鱈(やたら)とある個人のエッセイの中に、『枕草子』や『徒然草』が、窮屈そうに収まったりしている。研究書の扱いに到っては、ほぼ論外である。いずれにしても、時代(文学史)に対する配慮が決定的に欠けている。これはNDCの重大な欠陥だろう。このことは、日本文学だけでなく、外国文学についても同様に指摘できる。
右の①~③で、NDCの愚劣さ(不合理)を指摘したが、町中の小さな公立図書館などでは、さほど問題にはならないことかもしれない。だが、大規模な公立図書館、あるいは大学図書館などでは、上に記したように、この分類が大きな不都合を生んでいる。そのことを、図書館関係者、とくに「図書館学」に関係する立場の人々は、深く認識してほしい。
なお、私が所属していた東大の国文学研究室では、図書を、書目・辞書・索引・叢書・一般・上代・中古・中世・近世・近代の大項目に分類し、下位分類として、10番台を韻文(歌謡・和歌・俳諧・漢詩など)、20番台を演劇・戯曲、30番台を物語・小説、40番台を随筆、50番台を日記、……のように分類していたから、その下位分類そのものはNDCに近い。だが、大前提に時代(文学史)による分類があるから、NDCとの違いはずいぶんと大きい。