雑感

「おにぎり」?

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今日(4月23日)の朝、NHKの「あさイチ」を、ちらりとながめていたら、「おにぎり革命」と題して、「おにぎり」を取り上げていた。いまや「おにぎりブーム」なのだという。
なるほど、あちこちに「おにぎり屋」が増え、店頭にはさまざまな具材の「おにぎり」が並んでいる。コンビニの「おにぎりコーナー」も同様である。もっとも、私は旧弊な人間だから、梅干、鮭、たらこ、おかか以外の「おにぎり」は、まず買わない。

それはともあれ、ここで気になるのは、「おにぎり」という言葉である。私は、「おにぎり」とは呼びたくない。あれは、「おにぎり」ではなく、「おむすび」と呼ばれるべきだからである。「おむすびころりん」というおとぎ話があるが、あれを「おにぎりころりん」とは、誰も言わない。それが、よい証拠である。

ニギル(握る)とムスブ(結ぶ)は、言葉としてずいぶんと違う。
ニギルは、手の指を内側にぎゅっと曲げ入れることをいう。その状態で、何かを保持しようとすることもニギルである。「握り拳(こぶし)」のように、基本は片手の動作を意味する。
一方、ムスブはもっと奥行きの深い言葉である。大野晋『日本語をさかのぼる』(岩波新書)が、「縫い糸の末をむすぶ、水をすくうために両手をむすぶ。印をむすぶ。どれも、一つのものの両端をからめ合わせるところが共通である」と説明しているように、手の場合は、両手の動作になるから、ニギルとは大きく異なる。

さらに重要なのは、ムスブ動作には、呪的な働きがしばしば意識されていることである。『日本語をさかのぼる』の例に「印をむすぶ」があるが、印を結ぶ行為は、呪力の発動とも関連する。忍者が、印を結んでドロンドロンと姿を消すのは、架空の世界のことではあっても、そのことをよく示している。有間皇子の歌でよく知られる「松の枝結び」も、前途の無事を保証する呪的な意味が意識されている。男女が別れに際して、下着の紐を結びあうのも、そこに互いの魂を封じ込めて、無事な再会を希求する意味があるから、ここにも結びの呪力が意識されている。

そこで、「おむすび」である。これも御飯の固まりを両手でからみ合わせて、「おむすび」に拵(こしら)える。そこにもやはり、呪的な働きが意識されている。そう考えるのは、辻嘉一『味覚三昧』(中公文庫)に、次のような一節があるからである。

両手の掌(たなごころ)を濡らして粗(あら)塩をつけ、温かい御飯をまるめて、掌の凹みにあわせて固くむすんで形づくると、ぐっと味が深くなりおいしくいただける不思議であります。
木型で押しだした御飯と食べくらべてみられると、歴然と味に大差のあることがわかります。

なるほど、似たような形状であっても、木枠で押し出しただけの「おにぎり」と、丁寧にむすんだ「おむすび」とでは、味がまったく違う。ならば、結びの呪力の働きがここにもあったことになる。辻氏は、上の一節に続けて、「古来、おむすびと呼んでいる御飯の霊妙の美味」とも述べているが、その「霊妙の美味」とは、そうした呪力の働きの結果であるに違いない。
辻氏は、「にぎり飯などと粗末な呼びかたでなく、あくまでも、おむすび――と、尊びたい旨味であります」とも述べているが、私はここにつよく共感を覚える。

「おにぎり」は、「にぎり飯」とは違い、「お」は付いてはいるが、やはり「粗末な呼びかた」には違いない。それゆえ、私は「おにぎり」とは呼びたくない。

なお、「おにぎり」の類例に、「にぎり寿司」がある。ただし、「にぎり寿司」の場合は、寿司飯を形作るのに、両手をからめ合わせたりはしない。基本は左手の動作になる。右手は、補助的に添えるのみである。それゆえ、その動作をにぎると呼んでも不思議はない。

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