雑感

呆(ぼ)けが進む?

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昨年の三月あたりから、ほとんど外に出ていない。むろんコロナ禍のためである。毎日がほぼ逼塞状態といってもよい。30年以上出講していた千葉芸術文化塾の講義も中途で休止になってしまい、依頼を受けていた講演もほとんどが中止になってしまった。
学会にしても、ZOOMによる開催ばかりだから、家で視聴できる気安さはあるものの、白熱した議論の場には到底なり得ないから、毎度隔靴掻痒の思いを抱くことになり、不満ばかりが残ってしまう。私的に開いていた研究会も、ずっと休止状態が続いている。

問題は、ここからである。どうも長引くコロナ禍の影響は、私のような世代にもっとも大きく及んでいるように思われる。理由は簡単で、先がないからである。三代目三遊亭金馬の落語を聴いていたら、「頭ハゲても、浮気は止(や)まぬ。止まぬはずだよ、先がない」という都々逸様の警句が出て来た。浮気でなくとも、この身体がいつまで不自由を感じずに動けるのか、その保証はどこにもない。自由に外に出歩けない状況は、老い先短い世代にとって、もっとも深刻だと思う。

頭もそうである。教員生活をずっと続けて来た私の場合、定年後も外で話す機会は、有り難いことにしばしばあった。それがパッタリと途絶え、いまもその状態が続いている。
その結果、何が起こるのか。頭の呆(ぼ)けである。
外で話すと、頭はフル回転する。あらかじめ準備している内容を話していくうちに、連想やひらめきが次々と頭に浮かび、それを余談のように交えながら話を進めていく。それが私の講義スタイルなのだが、その機会が失われると、脳の活動がすっかり鈍くなり、その結果、呆けが進んでいくように感じられる。
論文のような文章は書き続けているのだが、書く場合と話す場合とでは、脳の働き方がどこか違うような気がする。

退職後の教員には、認知症の患者が少なくないと聞く。事実かどうかは確かめていないが、もしそうなら、その理由は上に書いたところにあるのではないか。
このブログを始めたのも、脳の活性化をはかる意図があったからだが、やはり外に出て、話す機会がないと駄目なようである。

ついでに一言。「認知症の患者」と書いたが、認知症というのは、日本語として不自然である。認知障害、認知機能障害ならわかる。おかしな日本語は使いたくないので、標題などあえて「呆け」を用いた。訓みはボケとしたが、ホウケでもよい。「惚け」の文字をあてることもある。もっとも、ボケは、いまは禁句らしい。一種の言葉狩りである。
言葉狩りは、しばしば和語蔑視、漢語尊重に向かう。それはおかしい。「気違い」などは、歴とした和語である。一方、「精神障害」のような漢語は、絶対的な事実をその本人に突きつける冷たさがある。「気違い」は、語義を考えれば明白だが、実は言葉としてはずっとやさしい。背景となる世界像も違う。「気違い」は「気」の違いで、外部の力に由来する現象をいうから、その人本人を責める意味合いはない。
差別を言い立てるなら、その本質は言葉にはない。「八百屋」を「青果店」、「魚や」を「鮮魚商」と言い換えて、高級になったように感ずるというのは、和語蔑視の現れであり、あまりにも愚劣である。

頭が回転するうちに、また外で話す機会がやって来るものなのかどうか。

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